「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」 - ひとつの組織でキャリア上昇したときに、失われる可能性のある3つの感覚

 ある人が、ひとつの組織においてキャリアを上昇させ、やがて自らが「マネジャー」としてバリバリ働き続ける頃に、へたをすれば失われ始める可能性のあるものとして、3つの感覚「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」があります。

 マネジャーになるとき、人は、多くの場合「嬉しさ」や「組織から認められたという思い」を感じます。「ようやく、わたしも、ここまできた」「これで自分の納得のいく仕事ができる」「一国一城の主として仕事ができる」。しかし、一方で、「マネジャーになる」ということは「得ること」でもあり「失うこと」でもあります。すべての物事が二面性をもつように、やはり「マネジャーになること」にも二面性があるおです。マネジャーになることによる「喪失」や、組織からの「プレッシャー」に対峙しなくてはなりません。
 
 上記の「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」は「喪失感」に関する事項ですが、自分のここ数年、ホソボソと行っている現場のラインマネジャーさんらへのヒアリングを通して、これらの概念が、ようやくつかめてきました(そんだけやって、これかよ、という厳しいつっこみはなしにして、笑)。

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 第一の「素人感覚」とは別名「若い人の感覚」であり、「新人の感覚」です。

 ある人がマネジャーとして辣腕をふるう頃には、自分が新人時代だったころから、十数年くらいはかかっているでしょう。その頃には、マネジャー自身は、あらゆる仕事がルーティンになり、情報処理は自動化・慣習化していますので、自らは「わからないことがわからなくなってきます」。あるいは「自分が自動化してできてしまうことを、言葉で説明することができなくなっています。
 ここで忍び寄るのが、第一の感覚「素人感覚の喪失」です。これに関しては、あるマネジャーがこう言っていたことを思いだします。

「彼ら(若い人)が、何がわからないのか、なぜわからないのか、僕にはわからない。そして、僕がわかっていないことが、彼らにはわからない」

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 第二の感覚である「世間感覚」とは、「組織の外の社会では、何が常識であり、何が流行しているのか。一般の消費者は何を求めているのか」ということに関する鋭敏な感覚です。

 マネジャーになるにせよ、ならないにせよ、また、本人が望むと望まないとにかかわらず、ひとつの組織の中に居続るプロセスにおいて、人は、組織から「社会化」の圧力を受け続けます。それによって、様々な作業や物事が自動化し、うまく適応できるようになるのですが、一方で、組織目標に合致した信念体系・ものの見方・思考形式を身につけたりもするものです。

 問題は、組織がもっている、こうした信念体系・ものの見方・思考形式が、外部の環境変化に呼応して変化しつづけていればよいのでしょうけれど、こうしたものは組織メンバーの奥底(組織文化をオニオンにたとえますと、オニオンの芯のあたり)に属しておりますので、そう簡単には変化しません。

 というわけで、ひとつの組織においてキャリア上昇を果たすプロセスにおいては、「世間感覚」から遊離する可能性が高くなってくるわけです。これに関しては、あるマネジャーさんが、こんな印象深い言葉を残しておられます。

「昔、わたしの中では、常に2つの人間がいてた気がするんです。組織の常識で動く自分と、世間様の常識でうごく自分。(中略)でも、いつか、組織の常識で動く自分だけになっちゃって」

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 第三の感覚である「現場感覚」は、いわずもがな「働く現場で起こっている物事に対する鋭敏な感覚」です。
 以前にもお話ししたことがありますが、現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」などの、5つのキーワードで彩られる場所だといいます(小田 2010)。要するに、現場とは「現在進行形で、個別具体的な物事・出来事が進行し、その様相は複雑きわまりなく、かつ予測不可能である場合」が多いということです。
 しかし、「現場の人々」は、そういう刻一刻と変化する場所において、そのつどそのつど情報を収集し、適切に、インプロ的に、物事を解決していきます。

 しかし「マネジャーになる」ということは、程度の差こそはあれ、「現場からの離脱」を意味します。なぜならマネジメントの原理的定義は「Getting Things Done Through Others(他人をもってコトをなすこと)」ですので、自分は「こと」に触れないようにすることが「基本の基」だからです。
 とはいえ、さすがに今どき「離脱率100%のマネジャー」、つまりは「プレーヤーとしての自分を全く残していないマネジャー」ないしは「完全に現場からあがったマネジャー」、以前より少なくなっているとは思いますが、しかし、少しずつ、彼ら / 彼女が「現場から離脱する」につれ、かつては自分の中で機能していた現場の感覚が、だんだんと鈍ってきます。

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 以上、今日の日記では、人が組織でキャリア上昇をはたし、マネジャーになる頃には、失われる危険性のある3つの感覚についてお話ししました。
 もちろん、「マネジャーになった」からといって、この3つが必ずしも失われるわけではありません。また、それらはマネジャーにならなくても、ないしはひとつの組織にいなくても、加齢等によって失われていくことかもしれません。
 上記は、あくまで僕の手持ちのデータで「可能性」ないしは「危険性」の話をしているということです。完全な概念化に関しては、またもう少しの時間がかかりそうです。

 しかし、この3つの感覚「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」が失われた状況というのは、これからの組織を生き抜く人々の「キャリア形成」としては、あまり「ポジティブなこと」とはいえない「厳しい状況」も見えてきます。
 かつては、組織が右肩上がりで、増え続ける人員に対して、何とか、マネジャー以上の上級職ポストを用意することができました。今は、マネジャー職以上の上級職のポストが少なくなっている組織が増えておりますし、一方で、65歳まで働かなければならない社会的状況が生まれつつあります。

 ということは、今、マネジャーである人にとっても、「マネジャーになったことが、必ずしも、その組織におけるキャリアのゴールとはならない」状況が生まれつつある、ということです。別の言葉を借りれば、マネジャーが「ある時期に担う役割」化するということになるのかもしれません。

 そういうことになりますと、しかるべき期間を終えたあとには、現場において、一担当者や、一教育係として、後輩の指導にあたったり、現場において世間様とふたたび対峙する可能性がでてくるということです。その際、「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」を失ってしまった元マネジャーには、「武器」が全くありませせん。全くの「丸腰」のまま、「現場」に翻弄されながら「素人」に出会い、「世間様」と対峙する可能性が増えてくるのです。

 「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」を失わずに、いかに、マネジャーとして働けるのか?
  そして、そもそも、マネジメントとは「ある時期の役割」でいいのか?

 このアポリア(難問)にどう答えるか、モデルのない模索が、少なくともしばらくは続きそうです。

 あなたは「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」、失ってはいませんか?

 そして人生は続く

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追伸.
 今週、木金曜日あたりの、東京大学フューチャーファカルティプログラムにおいて「対話型講義」の話をしなければならないので、久しぶりに、マイケル・サンデル先生の「白熱教室」を見直しました。サンデル先生、含蓄のある言葉を、講義の冒頭と最後にのべておられます。「慣れ親しんだものから引き離す」「新しいものの見方を喚起する」「理性の不安をめざめさせる」。学問においても、いろいろなものがありますが、ここで述べられている学問のめざすべきあり方に、共感を覚えます。

(講義冒頭のはじまりの言葉として)哲学は、わたしたちを"慣れ親しんだもの"から引き離す。"新しい情報"をもたらすことによってではなく、"新しいものの見方"を喚起することによって引き離す。"慣れ親しんだもの"が"見慣れないもの"に変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。

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(講義の最後の〆の言葉として)この講義の目的は、"理性の不安"を目覚めさせ、それがどこに通じるかを見ることだった。我々が、少なくともそれを実行し、その不安がこの先何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。ありがとう

  

投稿者 jun : 2013年4月22日 06:00