僕が感じた「ASTD2008」の「世界観」

 様々に異なっているモノゴトの水面下には、それを意味づけ、統御している「構造」が見いだせるとする思想的立場を「構造主義」といいます。
 こんな風に単純化すると、哲学者に便所スリッパでカ○チョーされそうですが、あまり気にせず、スリッパがケ●に刺さったまま、前に進みましょう。

 ASTDでは、様々なセッションに参加し、また、様々な国の、様々な人々に出会いました。それらを重ね合わせ、そこに共通する「何か」を見いだそうとするとき、僕には自ずと、1つの「世界観」が浮かんでは消えてくるのです。

 3つのキーワードで表現するなら、

 分散、多様性、ネットワーク

 です。

「分散して存在している、多様なものを、いかにネットワークしうるか」、これが、今回のASTD2008の発表で多くみられる考えかたではないでしょうか。

 下記に僕が感じた「世界観」を、拙い言葉で描写してみましょう。

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■組織で働く個人について
 
 働く人々は、皆、それぞれ異なった能力をもっています。彼らは、地球のいろいろな場所にすみ、違う時間帯のもとで、違う人生を生きています。
 しかし、彼らに共通する願いがないわけではありません。それが、「自分の能力を伸ばす方向で、人生の選択を行いたい」という願いです。

 (→タレントマネジメント)

 一方、この世の多くのモノゴトは、様々な能力を有する人々が、葛藤を経験しつつ、協力し、協調することで、協同的に達成されます。

 (→協力)

 また、多様なものごとのぶつかり合いと、そこで見いだせる共通点は、既存のモノゴトを疑い、新しいモノゴトをつくりだす(イノベーション)契機をつくりだします。

 (→イノベーション)

 協力し、協調することは、それらの人々に達成感、安心感をあたえます。

 ですので、異なるもの同士の「対話」や「コミュニケーション」が重要になります。

 対話やコミュニケーションは、組織と個人のゆるやかな関係(エンゲージメント)の向上をひきだす可能性があります。また、組織側から見た場合、その組織に対する持続的な貢献(リテンション)をも寄与するのです。

 (→対話)
 (→コミュニケーション)
 (→エンゲージメント)
 (→リテンション)

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■人材育成部門のあり方について

 次に、このような多様な人々の学びをいかに引き出すか、という視点に立ちます。

 ここで、まずわたしたちが確認しなければならないことは、ネットワークはハイアラーキカルなものによって管理することはできない、ということです。

 協調的なネットワークを支援しようとするものもまた、自らがネットワークを構成するひとりであり、ネットワーキングの渦中にいなければなりません。

 (→ネットワーキング)

 そして、下記のようなことが、激しく問われることになります。

「いったい、誰が、誰と一緒になって、どういう専門性をもちつつ、人々の学びや成長の支援を引き受けることができるのか」

 ということです。

 これは一言でいえば、「学び支援のオーナーシップ」とパートナーシップといえるかもしれません。

 (→オーナーシップ)
 (→パートナーシップ)

 人々が暮らす場所は、また多様です。人々が学び、育つために利用可能な「リソース」は、社内・社外をとわず分散しています。そして、その「リソース」の背後には、それを統御する「ローカルなオーナー」がいます。

 よって、人々の学びを支援しようとする人は、それぞれの「リソース」や、各リソースを管理しているローカルオーナーを協調させる必要がでてきます。

 あるいは、社外に無数に広がるネットワークに社員たちがでていき、専門性を高めることを「促進」する立場にあるということです。

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 以上をまとめます。

 組織において、人間は、異なる多様な人々と協調して、仕事をしています。
 そして、そういう人々の学習や成長を見守る人もまた、多くの人々の協調によって、それを達成する必要があるということではないでしょうか。

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 これがASTD2008で発表者が知らず知らずに持っていた「世界観」ではないかと僕は認識しています。
 何を「寝ぼけたこと」を言っているのだとおっしゃっるかたもいらっしゃるかもしれません。ここで描かれている世界は、「現実の組織」には全くあてはまらない絵空事だと。あるいは、何を「アタリマエのこと」を言っている、と言われるかもしれませんね。
 
 もちろん、この報告の最初に述べたように、これは「米国の状況」です。米国「では」そうだからといって、日本にそれを輸入しなければならない必然性はありません。一番怖れるのは、人間観、労働観、世界観といったものが無視され、「タレントマネジメント」といったキーワードだけが輸入され、消費されることです。 

 もし、このブログをお読みの方で、企業人材育成に関係する方がいらっしゃったら、ともかく、上記のASTD2008の世界観をネタ(肴)に、今一度、自分の組織、仕事を振り返る「契機」にしていただければ幸いです。

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 最後に、論点がボケますので詳細について述べることを避けますが、下記、2つのことについて指摘します。

 ひとつめ。
 上記に述べたことは、別に「企業内教育」だけの特殊な状況ではありません。程度の差こそはありますが、公教育だって、同じ状況に入っているということです。

「いったい、誰が、誰と一緒になって、どういう専門性をもちつつ、人々の学びや成長の支援を引き受けることができるのか」

 この問いは、すべての教育に携わる人々に問いかけられています。問われていることすら、気づかなかった?? それは、あなたが教育の内部から、教育を見ているからです。

 ふたつめ。
 上記のような状況では、「学ぶ」「育つ」を支える学問は、教育学、経営学、心理学のみならず、社会学、政治学にも広がります。ポストモダンから、さらにその先へ。「学ぶ」や「育つ」を支える学問には地殻変動が生じているのではないでしょうか。

 さて、学問は現場の流れを先導できるでしょうか。それとも、後追いなのでしょうか。

 そして人生は続く。

  

投稿者 jun : 2008年6月 5日 06:04