<私>がわからなくなる時代の学習研究!? : アイデンティティ変容としての学習

 先日は、同期の研究者たちと、それぞれの専門・研究領域の「最先端(フロンティア)」を持ち寄る研究会をしました。

 僕たちの研究領域の最近のトレンドをながめてみますと、例えば「longitudinal Study(縦断研究)」「Big data(大規模データ処理)」「Scaling up strategy(実践のスケールアップと持続可能性)」など、様々な概念があげられるわけですが、僕にとってもっとも「印象的」だったのは、学習研究のスコープに「アイデンティティ変容としての学習」といったものが導入されはじめているという報告でした。

 学習研究といっても、ものすごく広いので、これまた何ともいえないのですが、従来ならば、僕たちが対象にしているような学習研究のスコープは、「認知」のドメインに絞られる傾向が強かった気がします。僕は、これまで「エモーション」の領域には、全く土地勘がないので、そう思うのかもしれませんが、少なくとも、僕がカバーしている領域では、なかなか見つけることのできない概念でした。
(例えばアイデンティティの問題は、状況的認知論のメイントピックでもあるので、全く扱われていないわけではありませんが、相対的に見ると、やはり認知のしめる次元が圧倒的です)

 話題は「認知」にしぼり、万が一「エモーション」が扱われることがあったとしても、それは「付随的なもの」、ないしは「認知」を促進したり、「認知」にともなうもの、として論じられることが多かったように思うのです。

 ところが、少しずつ少しずつ、その状況が変わってきている。これが認知的次元のみならず、「エモーショナルな次元」を学習研究の射程に入れようとする動きです。その筋の専門家・研究者にとっては「何をいまさらジロー感!?」の漂う話題かもしれませんが、僕にとっては、なかなか新鮮にも感じます。
 例えば、先ほどの「アイデンティティ」を持ち出すのならば、「アイデンティティ変容としての学習」をおう、ということになるでしょうか。

 この背景にあるのは、いろいろな要因が考えられそうです。
 第一に考えつくのは、ここ10年、ネットなどの発達により、「仮想世界での自分」と「リアルワールドでの自分」に武断が起きやすくなっているので、複数のアイデンティティを駆使したりする機会が増えてきているから、というのが、よく言われることでしょう。実際、報告も、この線のロジックで研究がなされていました。

 でも、僕は、これはおそらく「現代という時代」の「不確実性」ゆえに生じている問題でもあるようにも思います。

 僕の研究領域の「組織・経営・学習」にひきつけていうならば、「学ぶこと」そして「働くこと」に付随して、ともすれば「アイデンティティを見失いやすいこと」「自己を見失う可能性が高まっていること」「よってたつべき価値が見出しにくいこと」などが生まれやすい傾向があり、それゆえに、研究の射程に、これらが入っているのかな、と邪推しました。

 ひと言でいうならば、

 <私>がわからなくなる時代の学習研究

 ということです。
 もしそうだとしたら、少し切なく、また、同時代人として、共感をおぼえてしまいます。

 例えば、望月先生(専修大学)は、P.Geeの多層的なアイデンティティ理論を紹介しておられました(ご紹介感謝!)。
 望月さんのご報告に寄りますと、ある学習研究では、これらのアイデンティティを分析枠組みとして研究がなされていたそうです。

 N-identity
  自然にできるアイデンティティ
 I-identity
  組織の中でつくられるアイデンティティ
 D-identity
  対話の中でつくられるアイデンティティ
 A-identity
  実践共同体に所属することでアイデンティティ

 僕は、アイデンティティ理論は、本当に全く専門知識はなく、ズブのドシロウトですが、経営学習論的(Management Learning)な観点から、この4つの分類は興味深く感じます。

 といいますのは、かつて、組織が今よりも揺るぎなく考えられていた時代の、Identityといえば「I-identity」そのものでありました。
 つまり「自分=組織・権力によって構築されたアイデンティティ」であり、「社員」であり、「係長」であり、「課長」であり、「部長」であった。つまり、ひとことでいえば、「I=Organization Man」ということです。キャリア論的にいえば「Organizational Career」の時代といえるかもしれません。

 しかし、組織が揺らいでくると、様々な「自己」が頭をもたげてきます。
 「組織の中での自分(I-identity)」と、「様々な他者との関係において見出される自分(D-identity)」さらには、組織外の様々な実践共同体において見出される自分(A-identity)」。多層的な社会的集団にそのつどそのつど参加し、出入りすることにより、「自己」を複数抱えることになるのです。

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 もちろん、すべての人々が、こういう「多層性」の中を生きているとは思えません。
 が、こうした多層的な空間の中で、時に「折り合い」をつけ、時に「引き裂かれる思い」を持ちながら、生きること、働くこと、学ぶことに、ある臨界値以上のリアリティを感じてしまうのは、僕だけでしょうか。

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 嗚呼、時代は変わっていきます。
 こうしたトレンドと、どのようにつきあっていくか。なかなか考えさせられます。研究者として「学問のトレンド」をどう意識するか、という問題もありますけれども、「今を生きる同時代のひとり」として、どのようにつきあっていくか、ということもね。

 僕がたくさんいるんだよ。
 でも、そのどれもが、僕なんだよ。

 ガチで研究のことを議論する会はよいものです。
 こうした機会を、いつも持てるのだとしたら、幸せなのですけれども、たとえ少なくとも、定期的にもつことは大切ですね。

「走る」ために「考える」
 そして人生は続く

  

投稿者 jun : 2013年2月22日 05:37