研究の場ではたらくポリティクス

 先日の僕のエントリーに関して、ペンシルバニアステートの藤本さんからレスポンスをいただきました。ありがとうございます。

 藤本さん、本当に、今、ペンステートにいますか(笑)。
 今、アメリカにいる人と、今箱根にいる人間が(僕は、今、箱根で研究会に参加しています)、こうして議論ができるってのは、よく考えてみたらスゴイことですね。15年前にはありえなかった話ですから。

藤本さんのエントリー
http://www.anotherway.jp/archives/000643.html

 以下は僕のコメントです。

>僕個人は、この問題については「いかに
>ポジティブや中立であろうとしても、悪意
>や利己心を持った受け手がメッセージを歪
>めて捉えようとするのは避けられない」と
>いう前提で、そういうセコい悪意など無力
>化できるくらいにポジティブさを維持して
>いこう、というスタンスを取ります。

なるほど。

ポジティブなもので、ネガティヴなものを超越しようというご発想でしょうか。しかし、「あるものがポジティブなものなのか、ネガティヴなものなのか」ということを、根拠をもって判断する基準はないんじゃないかなと思うんですね。そこでいう<ポジティブ>は、「藤本さんの考えるポジティブ」という意味で、まさに藤本さん自身も、政治力学の渦中にいますね。

自分の教育研究と、それに付随するポリティクスに関しては、こんな風に考えています。

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1)僕は、既に自分自身がポリティカルにニュートラルな存在ではないことを自覚する(僕の中にも背後仮説となるような教育観や学習観が存在する)

2)僕は、既に教育に関連する人々のパワーダイナミズム(政治力学)の中におり、時に利用され、時に反発を受けている、ことを自覚する。

3)上記のような政治力学の渦中にありつつ、僕が職業として教育学研究を行うかぎり(それで食っている存在であります)、そのハシクレとして、研究成果を語るという社会的要請がある。その際には最低でも下記に注意する。

 3-1)「わからないこと」はわからないという
 3-2)「教育にできないこと」はできないという
 3-3) データにもとづいた議論を行う
 3-4) 実質的な議論が行える研究成果の発表の
    場を設ける

4)上記のような認識をもって、自分の研究に関連する社会のステークホルダーをなるべく巻き込みながら - つまりは教育研究のアクターネットワークを構成しながら - どこまでできるか知らないけれど(笑)・・・研究を行う。

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 1)と2)はそのまんまです。

 3-1)は、昨日の議論とつながるのですが、「教育の専門家だからといって、教育に関連することだったら、何でもわかるわけじゃない」。そこには、自信と根拠をもって答えられる守備範囲ってのがあるはずです。守備範囲を超えると、まずデータがありませんから、とんでもなく根拠レスなことを言ってしまったりする。

 で、いわゆる「振り付け」をされたり、ポリティカルな悪意をもった人々に利用される可能性が格段にあがる。正直に「自分にわからないことは、データがないのでわからない」というべきです。

 前にこんなことがありました。
「ニートの増加は、ITの普及によるコミュニケーション不足の結果でしょうか」とある場所・・・役所で聞かれたのですね。「素直にデータがないのでわかりません」と答えたら、「そんなこともわかんないのか、コイツは」という目・・・というか、可愛そうなものを見るような悲しげな目・・・で見られたことがありますけれども(笑)。
 いや、専門家だからこそ、「わからないものをわかる」といっては、ダメだと思うのです。

 3-2)に関しては、たとえばこんなの。
「学校にコンピュータがはいって、みんながナレッジワーカーになれば、社会の階層格差は埋まるでしょうか」これは実際に取材を受けたときに言われたものです。そのときには、こんな風に答えました「いや、階層格差是正を目的にして、その種の教育の試みにできることはごくわずかだと思いますが」と言ったのですね。

 ともすれば、世に流布する言説は、何でもかんでも、クソミソ一緒にして、教育のせいにします、教育が何でも解決出来ると持っている。「教育にできること」「教育にできないこと」の線引きは、必要だと思っています。今回の場合、僕はこれを「教育にできないこと」ではないのかな、と思ったのですね。それについては、「できません」と言うことが重要なのではないかと思います。

 3-3)はアタリマエですね。議論にエビデンスがなければ、いわゆる「私の教育論」と同じになってしまいます。「わたしの教育論」ほど、政治的に利用されやすいものはない。

 3-4)「実質的な議論が行える研究成果の発表の場を設ける」は、「実質的な議論」というところが重要です。啓蒙系のシンポジウムとか、そういうのは議論がオープンじゃない。そういう意味では、自分のまわりに、研究仲間がいる。学生、研究者からなるようなコミュニティがあるというのは重要だと思っています。

 4)はいわゆるアクターネットワーク理論的世界ですね。文字通り、どこまでできるかはわかりませんが、少なくとも、今は、そういうネットワークをつくりたいと思っています。まさに政治の場です。

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>関連する話で、インストラクショナルシ
>ステムデザイン(ISD)の研究者達が、
>教育システム変革論に関心を持つように
>なった、という流れがあります。
>ISDは教育現場のデザインが主要な関心
>なのですが、それをうまくやろうとした
>り、学校全体やさらに広範に普及させよ
>うと考えた際には、どうしても学校や学
>区、より上位の教育システムといったマ
>クロなシステムの動きを考慮した取り組
>みが必要になります。
>(中略)
>政治的動きというと、何やら怪しげな感
>じがしますが、状況を望ましい状況に持
>っていくため手段の一つとして捉えれば
>いいと思います。

なるほど。
上位の教育システムのリデザインですか。

このあたりは、いわゆる学習科学(learning science)でも似たようなところがあって、WISEのグループとか、ノースウェスタンのグループとか、もっとマクロレヴェルの教育システムのリデザインに着手しているようですね。ちょっと前のところでは、M.ColeのFifth Dimensionがありますね。

ちょっと今研究室じゃないので、正確に名前は忘れましたが、彼らのグループが4年くらい前に書いた論文を読んで、「嗚呼、これはもう違うレイヤーの話にいっている」と感じたことを覚えています。彼らがやろうとしていることは、もう教育変革なのだと思いました。

実際、1990年代後半、Learning scientistの知見が、国や州の政策に反映されたり、新しく学校をつくったり、場合によっては、ベンチャーをたてたりしていますね。どこまでうまくいっているのかわかりませんが、とにかく、そういう場で活躍しているLearning scientistが増えていることは間違いないようです。

この点に関しては、研究成果が社会に還元されていくのは、とてもよいことだと思うのですが、僕自身としては、3つ思うところがあります。

 1) 研究室にしっかりと片足をつけておくこと
 2) 教育システムのリデザインを行う際、大学
   と実践現場を媒介する組織の必要性
 3)いったん自分の手をはなれ、普及フェイズに
  はいった段階で、自分の当初の考えが歪曲
  され、利用される可能性を自覚すること

 1)は先ほどの繰り返しです。バスケットボールをたとえにいいますと、僕は、こういう状況を「ピポットターン」的状況とよんでいますけど(笑)。僕は、個人的に研究、「軸足」だけは地面から離したくないし、離すことはないと思います。

 2)に関しては、結構思うところがあります。
 結論からいうと、大学研究者と現場のあいだをつなぐ媒介的な組織がなければ、なかなか教育システムの変革まで手がまわらないと思うのですね。

 いったん教育学者が普及ということを意識した場合には、どうしたってマンパワーが必要です。でも、そのマンパワーをどう獲得し、どういう仕組みで、その「マンパワー」をマネージしていくかについては、議論がナイーブすぎると思っています。

 たとえば、研究者と教育現場の関係を表現するモデルに、いわゆる「導管モデル」というのがありますよね。「研究者が、大学で研究に基づいて、教育プログラムをつくって、その教育プログラムを、現場に落として、教員が実施する」という考え方です。

 ただね、このモデル、僕は「ホンマにこんなんで、うまくいくのかな」と素朴に思ってしまいます。ウソこけよ、と。理念的に変だといっているわけではありません、機能的にうまくいかないと思うのです。モデルを構成する主体が二者しかいないんですね、「研究者」「実践者」みたいな。組織的な言及がないというのかね。

 研究者と実践者をつなぐ仕組み、リデザインを実働で行っていく人と、そうした人を組織立ててマネジメントしていく仕組みに対する言及がないと思うのです。いわゆるビジネスモデルでしょうか・・・普及モデルがないのですね。

 たとえば、アメリカですと、NPOなどの機関が、その仲立ちにはいるところがありますね。社会システムが全く違うので、性急な議論はできないのですが、そういう話をそもそも議論に組み入れなくてはならないのではないかと思ってしまいます。

 こういう風に思うようになったのは、NPOの経営にたずさわったり、MITに留学したあとからなんですけれども・・。

 3)に関してはダイバーシティがましますのでね、避けたいことかもしれませんが、致し方ないことです。

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 最後の方は話がちょっくらズレました。ごめんなさい。

 今度ぜひご帰国なさったときは、ゲームのことならず、ISDの研究動向などご教示いただければと思います。ポリティクスについてもお話ししましょう。

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投稿者 jun : 2006年3月12日 10:26

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トラックバック時刻: 2006年3月13日 16:55