創造、制約、コミュニケーション

 先日、ある人がこんな話をしていた。

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 現代アートは、わたしたちの、日常のものの見方に"裂け目"をつくります。私たちが、ふだん、"ものを見ている見方"がアタリマエのことではなかったのかもしれない、という"裂け目"をつくるんです。

 で、最近は、固定化したメディアをつくって、展覧会にもってくる、といったことをしない場合が増えています。つまり、作品が会場でつくられ、インスタレーションとして展示されるのです。

 展覧会場に入って、その場で、キュレーターと一緒にアーティストが作品をつくる、というようなかたちが、8割から9割になってきているのですね。

 中には、身体を動かして踊るような、いわゆる「パフォーマンス」が作品になっている人もいます。そのパフォーマンスも、アーティストとキュレーターでつくります。もはや現代アートは、アーティストとキュレーターの協働作業である場合がとても多いのです。

 でも、問題はここからです。日本人のキュレーターは、海外のキュレーターと比較して、アーティストとの間の創造的なコミュニケーション、創発的なコミュニケーションに慣れていない場合が多いように思います。
 海外の有名な作品を輸入してきて、展示することには慣れていらっしゃるが、コラボレーションすることには慣れていない方もいます。

 たとえていうのなら、アーティストから、「天井からドドドと水の流れる滝をつくって欲しい」と無理難題を言われると、素直にそれを聴いてしまうのです。アーティストが「作品を創る人」という発想から抜け出ることができない人が多い。

「なぜなんだ?」と問い返したり、「それよりは、こうした方がいいんじゃないか」と言うことがなかなかできない。その結果、頑張って「ドドドと水がながれる滝」を用意してしまう。

 次の日、「用意しましたよ」というと、今度はアーティストは「やっぱり気が変わった・・・滝は面白くない」と言う。そこで、コミュニケーションがブレークダウンしてしまうのです。

 アーティストが本当に欲しいのは、「滝」ではない場合が多いのです。創造のための「制約」をつくり、かつ、コミュニケーションの相手になってほしいのです。

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 この話は、どこまで一般性があるのか知りませんが、僕にとっては非常に印象的でした。

 僕はアーティストとは無縁の存在ですが(現代アートもほとんど知りません)、自分が人と何か新しいことをつくりあげるとき、新しい考えを発想しようとするとき、同じことを願う、と感じたからです。

 そして、そういう相手に出会えることは、創造にとってとても重要である、と思ったからです。いえ、本当のことをいうならば、「そういう人に出会えるか、否か」が、創造のクオリティをかなりの部分決めてしまうのではないか、とすら思いました。

 それにしても、「日常のものの見方に"裂け目"をつくる」というのは、面白いですね。こちら側の言葉でいうのならば、それは「学び壊し」であり「学び解し」なのかもしれません。

「現代アートの世界」も、「学習の世界」も、そして「学問の世界」もつながっているんだな、と思います。

  

投稿者 jun : 2008年12月 4日 12:42