飲み会とメーリングリストは、会社を亡ぼす!?

 先日、産業能率大学の長岡先生、ダイヤモンドのMさん、Iさんと話していたとき、こんな話になった。

「飲み会とメーリングリストは、会社を亡ぼす」

 もちろん、この言葉は、ややセンセーショナルに演出された「比喩」であって、字義通り受け取ってはいけない。飲み会も、メーリングリストも、それ自体には、何の「咎」もない。

 しかし、我々は、これらを「コミュニケーション手段」として過度に信頼をよせ、過度に依存してはいないだろうか。
 それらをもって「コミュニケーションがとれている気」になってはいないだろうか。
 実際にはコミュニケーションがとれていないのに、「コミュニケーションができている」と錯覚することで、職場はさらなる「コミュニケーション不全」に陥るのではないだろうか。これが、先日、僕たちが話していたことであった。

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 飲み会は、俗に「飲みゅケーション」とよばれる。日頃、心の中にたまっていることを吐き出し、言いたいことを言い合おうという趣旨である。

 しかし、はたと振り返ってみるとき、「本当に、我々は、飲み会で、コミュニケーションをしていたか」と問われると、いささか心許ない。

 確かに「言いたいこと」は言い合っていた。つまり、あなたの話は「伝達」していた。

 しかし、他者の話を「あなた自身は、ちゃんと聞いていたか」というと一気に威勢が悪くなる。
 多くの場合、飲み会では、相手の言っていたことを、「聞いていないこと」が多い。あるいは「聞いて」はいても、忘れてしまっていることが多いのではないだろうか。

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 次にメーリングリスト。
 メーリングリストは、誰でも、メンバーに一斉にメールを同時配信できる便利なメディアである。

 このツールは、多くの職場でもっとも頻繁に利用されており、もはやこれなしで仕事をしていくことが難しい。プロジェクトごと、部課ごとにメーリングリストがつくられ、「コミュニケーション」がなされている。

 しかし、私たちは、本当にメーリングリストで「コミュニケーション」をしているだろうか。原理的には誰もが情報を発信できるということをもって、「インタラクティヴにコミュニケーションできている気」になってはいないだろうか。
 多くの場合、固定化されたメンバーが、一斉に情報を「伝達」するメディアとして利用されてはいないだろうか。

 よく私たちは、会議で時間がなくなると、

「あとはメーリングリスト上で議論しましょう」

 といいがちである。

 しかし私事で恐縮だが、会議の終わったあと「メーリングリスト上でちゃんとした議論がなされたこと」など、僕は、寡聞にして知らない。せいぜい、会議の議事録が送られてくるくらいである。

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 飲み会やメーリングリストに共通することは、一見したところ、我々はそれらを「インタラクティブで、コミュニケーションがとれているように錯覚してしまいがち」だということである。

「飲み会をやっているから、コミュニケーションがとれている」
「メーリングリストがあるから、コミュニケーションがとれている」

 という風に考えがちだ。

 しかし、実際には、それらでコミュニケーションがとれている事例はさほど多くはない。これらを通して、僕たちは、人と人が相手の言っていることを聞き、考え、理解し、自らの意見を発信している事例はそれほど多くないことに気づかされる。

 むしろ、一方向的に情報を「伝達」する機会やメディアとして利用されていることが多いのではないかと思う。

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話が長くなった。

「飲み会とメーリングリストは、会社を亡ぼす」

 というのは、もちろん比喩である。どちらも、とても重要なコミュニケーションチャンスであることには間違いない。

 しかし、私たちが考えているほど、飲み会やメーリングリストでは、我々は相互に向き合えないことが多いし、ちゃんと話せないことが多いことも、また事実ではないかと思う。その限界を知った上で、過度の「依存」や「思いこみ」を避けることが重要であろうと思う。

 じゃあ、どうすんの?

 この続きに関しては、僕と長岡先生の共著(ダイヤモンド社刊)で、お話しします。なんじゃそら、とお叱りを受けそうなオチだけど(笑)、ぜひお楽しみに。

  

投稿者 jun : 2008年9月17日 08:54