2010.5.20 12:09/ Jun
ポジティブシンキングとは、「コップがこなごなに割れて床に散らばっていても、コップの水はいまだ半分あると思い込むこと」に似ている。(中略)そして、アメリカという国では、「ポジティブであること」はふつうであるにとどまらず、「規範」にさえなっている。「そうあるべきだ」とされているのだ。
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バーバラ=エーレンライク著「ポジティブ病の国、アメリカ」を読みました。本書は、「ポジティブであること」が「規範」として人々を呪縛する、アメリカという国のダークサイドを論じた書籍です。
著者のエーレンライクは、第一級のジャーナリスト。彼女は、かつて米国の低所得者層の仕事であるウエイトレス、清掃婦、ウォルマートの店員を自ら体験し、そこでの経験をもとに、低所得者層の人々の悲哀と苦しみを『ニッケル・アンド・ダイムド』で世に問いました。『ニッケル・アンド・ダイムド』は、当時の人々の幅広い関心をよび、ベストセラーになりました。
エーレンライクの筆致は、とどまるところを知りません。次作では「低所得者層」から「ホワイトカラー」へ。彼女は、かつて、貧困とは無縁であった米国のホワイトカラーに焦点をあて、その求職活動を問題にしました。
リストラクチャリングされたホワイトカラーは、どこい行き着くのか。自らがホワイトカラーとして求職活動を実践し、その求職が「ラクダが針の穴を通ること」よりも難しいことを体験します。そこには、一度、落ちていけば止まらない、いわゆる「滑り台社会」の実態があります。
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本書「ポジティブ病の国、アメリカ」で、エーレンライクが選んだ対象は、一言でいえば「ポジティブシンキング」です。
曰く、
アメリカ人にとってポジティブであることは、「気分」や「状態」というよりも、「イデオロギー」の一部だからである。
そのイデオロギーとは「ポジティブシンキング」であって、この言葉には二つの意味がある。ひとつは、一般にいう前向きな思考のことで、次のように要約できる。「今のところ、状況はまずまずだ。少なくとも希望のきざしや不幸中の幸いを積極的に見つけようとすれば。今後はもっとずっとよくなるであろう」。(中略)「ポジティブシンキング」のもうひとつの意味は、「前向きに思考する練習」、あるいは「訓練」である。
誤解を恐れず要約するのであれば、、米国は、「前向きな思考、つとめて明るく振る舞い、考えることを、練習と訓練によって、すべての人々が、実践せざるをえない社会」であるということです。人間には「ネガティブさ」はあってはいけない。それは練習と訓練によって乗り越えなければならない、ということでしょうか。
こうした底抜けの「ポジティブさ」は、それは米国人生来の気質というよりも、意図的に構築されたものであるとのことです。エーレンライクの歴史的考察によれば、アメリカ人はもともとポジティブな思考の持ち主ではなかったそうです。「少なくとも根拠のない楽観主義と、それを見につける手法の症例については、建国から数十年たって表にあらわれ、まとまったかたちになった」としています。
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もちろん、「物事を前向き」に考えることは、ある側面では必要なことでしょう。人はどんなに「絶望」していても、「希望」や「明るさ」を失わないかぎり生きていけるものです。
もちろん、気分ややる気ののらない瞬間、ネガティブな日は、たくさんあります。でも、どうせ生きていくのならば、僕個人は、ネガティブであるよりは、ポジティブな気分をもてる瞬間を増やしていきたいと願います。そのことは、肌感覚としては、多くの人々から共感いただけることなのかな、と邪推します。つまり、自らポジティブに思考するそのことが「悪い」わけではない、のです。
しかし、問題は、そこではない。
彼女が問題にしているのは、おそらく、そういうことではないのです。
エーレンライクが本書を通して一貫して批判しているのは、自ら個人がポジティブになることを選んで、ポジティブに振る舞うことではありません。
「ポジティブシンキング」という意図的に構築された「イデオロギー」が他者から、明示的であれ、非明示的であれ強制され、そのことを通して「市場経済の残酷な側面」や、「社会の矛盾」が「隠蔽」「温存」され、そこで生まれた様々な悲惨な出来事が、すべて「個人の責任」にされてしまうことでしょう。
あるいは、ポジティブシンキングという個人の姿勢が、第三者(多くは権力と経済資本のある者)によって「規範」として強制され、現在の社会体制を維持するために狡猾に利用されることです。
エーレンライク曰く、
「物質面での成功を得るためのカギが楽観主義であって、楽観主義がポジティブシンキングの訓練によって習得できるならば、失敗したときには言い訳できない。ポジティブ思考の裏を返せば、容赦なく、個人の責任を強調されるということだ」
「問題を精神や心に押しこめてしまうと経済や社会の問題がないがしろにされ、個人の責任のみが問われてしまう。精神主義やポジティブ・シンキングが推奨される社会というのは社会構造や社会問題が無視され、隠蔽される危険があるのである。すべて精神や心が悪いとなり、搾取や権力の問題から目隠しをされてしまうことになる。」
本来問いなおされなければならないもの、社会の構造、会社の中の権力関係、既得権益が問われることなく、すべての問題が「個人の責任」として帰属されてしまう言説というものが、リベラリズムの台頭するこの世の中においては、生まれては消え、消えては生まれます。
エーレンライクが問題提起するポジティブシンキングも、また、その一つである、ということになるのかもしれません。
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このようなリスクを内在しながらも、いまや、「ポジティブシンキング」は「産業」として成長しています。
彼女によれば、企業が従業員用に購入する広い価格帯のモチベーション商品も、そのひとつだそうです。モチベーション商品は、巨万の富を動かす大規模産業である、といいます。
「社員をふるいにかけてリストラの犠牲者をえらびだし、他人とコミュニケーションをとらないようにしてまわりの人からいっそう遠ざけて追い込む。そのあとは、会社に残ったショックをうけ、不安をかかえる社員をどうにかしなければならない。CEOはモティベーション産業に頼る」
確かに、組織の中のモティベーションや感情を管理・維持・活性化するとする試みが、私たちの世の中にはあふれています。あるいは、モティベーションを向上させるということを目的に、チームビルディングを担う試みが、世の中にはたくさんあります。かくして、モティベーションや感情といった、個人の問題も、いまや第三者によって組織化される対象になりました。このことによって、個人が抱えているリスクと矛盾を、エーレンライクは指摘しています。
ポジティブシンキングは「産業」であるだけではありません。いまや、米国では「宗教」もポジティブシンキングを担う機関に変わりつつあることを彼女は指摘しています。キリスト教の一部の協会、目がチャーチが、ポジティブシンキングと結びつき、「陰鬱な説教」を人々になすのではなく、ポジティブさを全面におしだしたコーチングを提供するようになりました。
「あなたの態度こそが、これからの自分の人生を決めるのだ」
「神はポジティブである!」
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本書は、このように、米国最大のタブーである「ポジティブであること」に疑問を呈しています。その筆致はジャーナリスティックなものであり、時に扇情的ですので、論争を巻き起こさざるをえないと思います。
しかし、「強制されるポジティブさ」が、リベラリズムや自己責任論と共振して、既得権益や体制の問題を隠蔽し、それを維持することに荷担してしまう、という指摘は、非常に興味深いな、と思いました。
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■2010年5月19日 中原のTwitterでの発言
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