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2006.9.15 08:36/ Jun

「待ち合わせ」が失われている

 僕が抵抗を感じることのひとつに、「緩い待ち合わせ」がある。
 「緩い待ち合わせ」とは僕の造語。携帯電話を誰もがもつ時代になって、以前のように「7時30分に、どこに必ず来てね」といったような待ち合わせがめっきり少なくなった。それに引きかえ多くなってきたのは、「じゃあ、7時くらいに新宿で」のような「緩い待ち合わせ」である。
 だいたい7時あたりに現地付近について、あとは携帯電話で連絡をとり、落ち合う場所を決めればよい。どうせ連絡がとれるのだから、「だいたい」でいい。少しぐらい遅れたって、連絡さえとれれば何とかなる。そういう緩慢な態度でのぞむ「待ち合わせ」が増えている。
 広辞苑を引けば、「待ち合わせ」とは、「あらかじめ時間・場所を定め、そこでおちあうようにすること」を言う。その定義からすれば、そもそも、時間も場所も「定まってはいない」という意味において、「待ち合わせ」という行為は世の中から失われつつあるのかもしれない、と思う。
 しかし、僕はこれに、少し抵抗感を感じる。
 何が一番嫌なのか。
 思うに「出会うということ」に関する「安易な態度」が「緩い待ち合わせ」に見え隠れしている、そのことが僕をして、「従来の待ち合わせ」にこだわらせる一因であるように思う。
 僕は「人と人が出会う」ということに関して、きっちり望みたい。決まった時間に、きちんとした準備をして、コミュニケーションをする。
 お互いに、忙しい中、それ相応のコストをかけて、出会うことを意志決定した。そうであるならば、せめて落ち合う場所、時間もあらかじめきっちりと決めて、背筋を伸ばして相手の到着を待ちたい。そういう「儀式としての出会い」を重視したい。
 そして、もし仮に出会えたのだとしたら、何が起こるかわからない世の中で、「今日、出会えたこと」を素直に喜ぶべきだと、個人的には思う。敢えて大袈裟に言うと、そういうことだ。
 「緩い待ち合わせ」は「出会い」の儀式性や意味を曖昧にし、人と出会うことを、メリハリのない「終わりなき日常化」してしまう。そのことが、僕にとっては、どうも「不誠実な感じ」がして好きになれないのかもしれない。
 —
 嗚呼、説教くさいエントリーになった。
 だが、「じゃあ、7時に東京で」と言われるたびに、僕の心にはそういう思いがよぎる。もちろん、口に出しては何も言わないけれどね。

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