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2007.4.8 09:01/ Jun

ワークショップ知財研究会の本を読んだ!:ワークショップと知財

 非常に斬新でいて、かつ、タイムリーなテーマの本だと思う。
 献本いただいた、ワークショップ知財研究会(編)「子どものためのワークショップ:その知財は誰のもの?」を読んだ(ご献本、ありがとうございました)。
 ワークショップが教育やビジネスの手法として注目され始めた今だからこそ、この問題を決して避けて通ってはいけない、と思った。

 この本で扱っている内容は、「ワークショップと知財」である。
 一言でいってしまうと、「ワークショップを実施する人たちの知的財産に関する権利を、いかに守っていけばいいのか」ということ。
 知財というものは、「権利者が権利を主張して」はじめて、守られる。このような問題の提起は、非常に貴重だ。
 著者のひとり大月ヒロ子氏はいう。
 —
福井健策氏は、著書「著作権とは何か」の中で、「卓抜したアイデアならば、これを真似する人はとても楽です。他人のよいアイデアを取り入れればよい作品も生まれやすいし、楽してお金儲けできる。それとは対照的に真似されてしまう人はちょっと気の毒です」と書かれていますが、こうした現象は、すでにワークショップの世界でも起こっています。
ワークショッププランナーやクリエイター、アーティストなど契約を結ぶことに慣れていない人々と、契約のことに精通しそれを行かす場所をたくさんもった人々とのあいだに、すでに大きな格差が生まれています。
多くの魅力的なワークショップを生み出してきた彼らが疲れ果てる前に、わたしたちがすべきことは何なのでしょうか。
(同書 p23より引用)
 —
 まさにそのとおりである。より具体的にいうならば、こういうことであろう。
 既に、世の中には2通りの人種がいる。ワークショップを実際につくる人=クリエーターと、クリエータのつくるワークショップで金を儲けようとするビジネスマン。
 ビジネスマンは、それで莫大な金額を手にできるのに、クリエータには謝金程度の金額しかわたらない。
 それならまだよい方かもしれない。クリエータのつくった作品が、いろいろな場所で勝手に実施され、クレジットも表示されない。
 実際、こういうトラブルを、僕も何度かクリエータの方から聞いたことがある。
「わたしのつくったワークショップで、数百万も儲ける人がいる一方で、なぜ、わたしたちはいつもキリキリの予算の中で数百円を節約して、みんなボランティアの手弁当で、ワークショップをやっているのでしょうか。何かおかしくないですか?」
 —
 それではワークショップの権利をいかにして守るか?
 実は、これは言うのは簡単ではあるが、非常に難しい。なぜかというと、「ワークショップが何か」がなかなかいいあてることができないからだ。簡単に言おう。
 ワークショップが「展示」だとすれば、それは美術作品や写真と同列になるが、それは展示ともいえない。
「劇」と考えるならば「上演」という概念で把握できるが、聴衆が参加する「劇」というのは、なかなか従来の「劇」とは把握できない。
 ワークショップは「ぬえ」のように、著作権法が定める既存の概念をすりぬけてしまう。
 結局、ワークショップの最大の構成要素である「ノウハウ」「アイデア」「コンセプト」というものは、守られることはない。それでも、確実に守られるものはある。「企画書」「シナリオ」「キット」「映像」「商標」など。
 実際は、おそらく、これら様々な構成要素に関してひとつひとつ権利を確認し、複合的、かつ包括的な縛りの中で、「ワークショップ全体」を守っていくしかないのだろう、と思われる。面倒くさいけど、それを行っていく他はない。
(このあたりはワークショッパーひとりでは対応が不可能ではないだろうか。代理エージェントをたてるか、人を雇う必要がでてくる。あるいは、ワークショップをする人たちが集まって知的財産に関する協会をつくるという取り組みがあってもよい、と個人的には思う)
 —
「権利」がないところに「お金」は生まれない。「お金」が生まれないところに「人」は育たない。そして「人を育てられない業界」に「未来」はない。
 かつて、村上春樹氏がこのことについて、自らのエッセイでこんなことを書いていた。
 —
 僕は原稿料の入ってこない原稿は絶対に書かない。すごく生意気に聞こえるかもしれないけれど、プロとしては当然である。たとえどんなに安くても、ギャラだけは現金できちんともらう。宴会やってチャラなんていうのはイヤだ。こちらも〆切を厳守するのだから、そちらもきちんとやってほしいと思う。
 しかし、そういう風にやっていると「あいつは金にうるさい」と言われたりすることがある。しかし、そういう同人誌、ドンブリ勘定的な体質が日本の文壇をどれだけスポイルしてきたのか、よく考えて欲しい。
 —
 まさに同感である。そして、ワークショップについても、このことは言える。
 ワークショップを実施する人が、気持ちよくそれを実施でき、かつ、経済的にも恵まれる環境を生み出さなければ – はやくドンブリ勘定的な体質を排除せねば – そこは、いつまでたっても魅力的な若者は参入しない。
 若者が参入しない業界は、「アングラ化」「高齢化」し、いつか前衛集団のようになってしまう。
 この業界は、今が岐路であると思う。
 —
追伸.
 研究者にとっても、このことは言える。
 自分たちの生み出したアイデアやコンセプトに関しては、決してドンブリ勘定であってはいけない。面倒かもしれないし、「あの先生は金に汚い」と後ろ指さされるかもしれないけど、絶対にそこを譲ってはいけない。
 既に研究組織に所属し自立している本人は、帳尻あわせ程度の対価で満足できるかもしれないが、これから就職につく若者はそうはいかない。
 そこで手を抜くと、結局、次世代を担う若者の就職機会、将来手にするであろう経済的メリットを奪うことになる。
 そういうドンブリ勘定が、これまで、いかに多くの若者の「未来」を奪ってきたか、そして「この業界で生きていきたいけど、それだけでは食べられない環境」を生み出してきたか、肝に銘じるべきだ、と僕は思う。
 特に「教育」の業界には「教育とお金は無縁である」といったような「聖性」が付与されやすい=人々の強固な信念があるから、注意が必要だ。

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