ここからはじまるわたしの研究:企業と学習に関する研究ことはじめ

2004/08/01 Update

※下記は、2004年8月1日の日記からの転載です

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 前々から日記でご紹介していたとおり、「ここからはじまる人材育成 - ワークプレイス・ラーニングデザイン入門」という本が、中央経済社から発売になりました。

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▼書名:ここからはじまる人材育成
▼副題:ワークプレイスラーニング・デザイン入門
▼編著者:中原淳
▼著者:北村士朗・荒木淳子・松田岳士・浦嶋憲明・小松秀圀
▼出版社:中央経済社
▼定価(税込価格):2520円
▼ISBNコード:4502375403
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▼紹介文:

 本書は、1)国内先進企業の人材育成事例、2)人材育成の基礎知識の解説などから構成されています。

 事例部分は「人材育成担当者」のインタビューから構成されています。筆者らが、オートバックス、富士ゼロックス、富士通、東京海上火災、富士ゼロックス、マイクロソフト、デンソーの人材育成担当者の方々にインタビューを行いました。人材育成担当者の方々が、どのような経営課題のもとで、人材育成担当者が何を考え、何を工夫し、何につまずき、何にやりがいを見いだしたか、にフォーカスをあてています。

 基礎知識の部分は、教育工学、学習科学、インストラクショナルデザイン、経営学などで焦点があたっている、いくつかのキーワードをとりあげ、コラムの部分で、平易に解説を行いました。

 人事・教育部門に異動直後といった企業内教育の初心者の方々、企業内教育関係の仕事をされたいという学生の方々、革新的な教育環境をデザインしたいベテラン担当者の方まで、すべての人材育成関係者の方々にお読みいただけば幸いです。

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 ・・・といった本です。是非、どうぞ、書店で見つけましたら、お買い求め下さい・・・お願い(笑)。もし書棚に埋もれていたら、平積みになっている本の上にこの本を、そっと、重ねて置いてください(笑)・・・くれぐれもそっとね、見つかっちゃダメだよ

 この本の出版にわたり、僕は「編著者」としてかかわったわけですが、執筆者の方々には大変助けられて、何とか、かんとか、やりとげたといった感じです。

 巧みな話術で企業の方々から重要な話をひきだす北村さん@東京海上HRA。原稿脱稿前に渡米してしまった筆者の仕事を引き受けてくれた荒木さん@日本総研。筆者の執筆企画を最初に聞いてくれ、いろいろアドバイスをくれた浦嶋さん@三菱総研。ただでさえ大変な事例の執筆を2つも引き受けてくれた松田さん@青山学院大学。そして、様々な企業を筆者らに紹介してくれる労をになってくれた小松さん@NTTラーニングシステムズ。

 この場を借りて執筆者の方々には、御礼を言いたいです。皆さんの協力がなければ、この本は完成しなかったと思います。ありがとうございました、そしてお疲れ様でした。

 さらには、各企業の人材育成担当者の方々にも、貴重な時間をさいていただき、本当にお世話になりました。

 システムエンジニア部門から、教育部門に配属になり、学習者のケアに急がしい毎日を過ごしている富士ゼロックス(株)の山崎さん。
  ホテルマンからの転身をはかり、若者にも受け入れてもらえるようなコダワリの教材を開発した(株)オートバックスセブンの石井さん。
  東京海上火災保険(株)の新入社員たちの「人生最大の変化をデザインすること」にやりがいを感じている大谷さん。
  自分をマーケティングする場(=社内にナレッジを環流させるきっかけ)をつくることこそが人材育成にとって重要であると考えているマイクロソフト(株)の佐藤さん、大磯さん。
  「FUJITSUらしさ」を一貫したカリキュラムのもとで学んでもらうため、企業内大学の立ち上げに奔走している山村さん、加藤さん。
  かつて会社が誇っていた「チーム力」の回復をめざし、コーチング教育に注力した(株)デンソーの青木さんと石原さん。

 皆さんからは本当に貴重なお話しを伺いました。編者として、皆さんのお考えや、思いといったものを十分に反映できたかどうかは、心許ないのですが、もしそれが不十分なものだとしたら、すべては編者の責です。ご堪忍ください。ともかく、何とか本が完成しました。どうもありがとうございました。

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 ところで、僕にとって、編著者となるのはこの本で3冊目です。はじめて書いた本は「社会人大学院へ行こう」。次が「eラーニングマネジメント - 大学の挑戦」ですね。3冊とも、企画をゼロから立ち上げ、最終的な編集作業まで担当してきました。

 これ以外に、共著者としての著書はいくつかあります。今年もおそらくあと数冊ほど出版されると思います。しかしながら、編者をつとめる本、特に企画段階からかかわった本というのは、やはり思い入れがひとしおなんですね。それぞれの本には、読者の方々に伝えたい思い入れみたいなものがあります。

 周知のとおり、本というメディアは論文とは違うものです。論文を執筆する際には、一般には「わたし」「わたしたち」の主語を消すことが求められます(良いか悪いかはここでは述べません)。そして、ピアレビュー(Peer review)に耐える必要がありますので、過剰な表現やレトリックも消されます。文章は体系的に、簡潔に「One conclusion」にむかって、構成されなければなりません。

 それに対して本は違うと思うのです。決して、「Two conclusion」あってよいというわけではないです。本もやはり究極的には「One conclusion」であるべきだと、僕は思います。
  しかし、たとえば「論文」を「柔道の正式な試合」としますと、「本」というのは「無制限金網電撃デスマッチ」みたいな感じがするのです・・大仁田厚参議院議員暴れるみたいな(笑)。うん、なんかよい比喩ではないですね。

 要するに言いたいことは、本は読者の方々に向かって、論文よりも自由に問いかけることができると思うのです。表現手法も自由ですし、レトリックなども使えます。レイアウトも自由ですし、構成も自由。本は論文よりも、「著者である私が読者に直接的に問いかけることのできるメディア」であるように思っています。

 誤解を避けるために言っておきますが、僕は論文を書くことも、本を書くことも好きです。でも、それは少し異なった知的作業であるように感じます。もちろん、こういう位置づけは、研究者によって異なるのが当然だと思います。ですが、少なくとも、僕は、本をそのように位置づけ、これまで編集を行ってきましたし、きっとそういう本をこれからも編集・執筆していくでしょう。

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 話が回り道しました。それでは、「ここからはじまる人材育成」を企画する段階、編集していく段階で、僕には、どのような思い入れがあったのか。

 それは端的にいうと、下記の3点です。

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1) 企業の中で学習環境をデザインするときに、教育学や学習研究の知見が役立って欲しい。そして、大学に、教育学的な観点から企業を研究する研究部門があってもよいのではないか。

2) 企業の人々が学習環境について相互に語り合うときに、もっと、教育実践者や学習者の立場にたった記述がなされるべきであるし、そうした豊かな記述によって、他の人材育成担当者は学ぶことができる。

3) 企業の人材育成部門で、教育研究や学習研究を学んだ学生さんたちが生き生き働くこともありなのではないか。

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 「端的に言う」と述べつつ、3つもありますね、全く端的ではない(笑)。でも、上記は、3つに分けていますが、結局はひとつのことを言っていますね。この本で、僕は「企業の人材育成と教育研究/学習研究が、もっとむすびつきを強めるべきだ」ということを述べたかった。

 そうだ、そのことを僕は主張したかった!

 「主張」とは・・・なんかデカイ話になってきましたね。「デカイことばかり言っていると、ナマイキだって思われるよ」って、いろいろな方から暗に忠告を受けることがたまにありますが、ありがとうございます、みなさん、僕のことをご心配いただいて。
  でも、思われてもいいんです、僕は(笑)。正直にいうとナマイキと思われない方が、どちらかと言えばいいんですけど(笑)。いや、違うな、「ナマイキ」と思われることが愉快であることも事実なんです、ホホホホホ。何も思われない、あるいは、無視されるよりはよっぽど愉快です。

  僕は、自分がやっていることを正直に「今、やってます」と宣言したり、いずれやってみたいことを自己成就予言的に人の前で述べちゃって、「あとに引けなく」することで、今の今まで、28年間生きてきました。それに加えて、自分が「オモシロイ」と思うことを、黙ってはいられない性格です。それがナマイキになるのなら、それはそれで仕方がない。僕はちっとも怖くない。

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 話がまたそれましたね・・・。じゃあ、この3つを次に解説していきましょう。

 まず、1)ですが、これについては何度も日記で述べてきましたし、本のコラムでも述べました。従来の教育学研究、学習研究では、「企業」が「学習の場」として把握されることは、非常に少なかったと言えると思うのです。

 誤解を避けるために言っておきますが、全くないわけじゃない。たとえば、ワークプレイス研究、一部の教育社会学などでは、企業を対象にした研究が行われおり、重要な知見を生み出してきています。しかし、それらの研究の多くは、「学習環境で起こっていることを見る/分析すること」を主目的にデザインされていたのではないかと思います。「学習環境をデザインする」という観点からすると、かなり少ない。

 「なにおー、インストラクショナルデザインがあるぢゃないか」といぶかる方もいるかもしれない。しかし、インストラクショナルデザインは、主に北米を中心に盛んですが、日本ではこれまで非常に研究事例はあまり多くないと思います。

 このことは、先行研究をたどらずとも、それを証明することができます。教育学は一般に大学の教育学部で教えられていますが、日本の教育学部に、企業内教育を対象とする研究部門や講座を抱えているところは、非常に少ないはずです。皆さん、お暇でしたら、「ぐぐって(Google)」みてください。本当に少ないことがおわかりいただけると思います。

 むかーし、大学学部時代にならったことで恐縮ですけれども、日本の企業と大学の間の接合というのは、「専門性」を重視する欧米とは異なると言われてきました。

 さすがに最近は違っているとは思いますが、日本の企業は学生にはあまりスキルや専門知識などを期待していなかった。それよりは、学生にはまっさら(タブラ・ラサ:白紙の意味)の状態で企業に入って欲しい。で、必要な知識や技能は、OJTや企業内教育でたたき込もうとする傾向がつよかったと言われています。それならば、重要なのはそうした教育で学べる力とそれに耐える力ということになる。いわゆる「学習力」と「忍耐力」です。

 で、本来ならば、そうした人物を就職試験で見極めたいんだけれども、膨大な数の志望者の能力を短期間に見分けるには制約がある。コストがかからず学習力、忍耐力のある人間をえらぶ指標として機能するのは、大学入試だったというわけです。だから、企業は大学の偏差値にしたがって、採用活動をしていると言われていました。それには否定的な意見もあったのかもしれませんが、きわめて合理的な判断であり、意志決定だったのです。

 ここでポイントになるのは、日本企業は「必要な知識や技能は、OJTや企業内教育でたたき込もうとする傾向が強かった」ということです。日本企業の競争優位を支えるのは、企業内教育によってつくられた「人材」であった。そして、そうであるならば、「企業の中の学習デザイン」の問題をもう少し研究する領域があってもよいはずなのに、実際には、そうはならなかった。

 ごめん、その理由については僕にはわかりません。でも、なぜだかわからないけれど、この関心にジャストミートするような研究領域は、今まで教育学の中では市民権を得てこなかった。で、僕はそうした領域が教育学の中でもっと扱われた方がいいのではないかな、と思うようになりました。

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 次に2です。

 これについては、以前に日記「2004/06/12」で書いたことがありますね。
  要するに、企業の人材育成担当者が記述する多くの事例は、学習の起こる場、そのコンテキストに関する記述が圧倒的に少ない。

 もちろん、簡潔な記述も有効なのですよ。全く否定しているわけではないのです。しかし、もう少しコンテキストに配慮したリッチな記述をしなければ、他人に、その試みの善さを伝えられていないように僕は思うのです。

 たとえば、その最たる例である「箇条書き報告」の、決定的な欠点は、「学習者の実際の姿」や、それを「デザインした人の実際の行為」が見えないことです。こういう「具体性」が見えないと、どういうことになるかっていうと、「なんか具体的な様子はわからないんだけど、ともかく、すげーな」っていう感じで思考停止してしまうように思います。

 今回の本の事例部分の執筆では、とにかく「具体にこだわる」という方針をたてました。

 「誰が、何を目的に、どういう学習者を対象として、どんな教材を用いつつ、どんな価値を提供し、その結果、どんなよいことがおこったのか」について、なるべく「分厚く」記述することを試みました。もちろん、少しやりすぎているところもあるし、これが最善だとは思いません。編集を終えたあとで、いくつかの問題点も、わかってきました。これについては、また別のところで述べますが、今後の課題になることでしょう。

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 最後の思いは、1とリンクしています。大学にそういう研究部門ができるのと同時に、そこを卒業した「教育学や学習研究を学んだ人たち」が、もっと企業の人材育成/教育部門にエントリーしてほしい」ということですね。

 一般に、教育学部には教員養成を主目的にした教育学部と、そうでない教育学部があります。前者の教育学部を卒業した人は、教員になるのがアタリマエでした。

 しかしながら、教育学部をでても、教員になれないという状況がここ数年続いていた。

国立の教員養成大学・学部新規卒業者の教員就職状況
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/005/toushin/1901/011106.htm

 最近は少し改善したという話も聞きますけど、教育学部をでた人が、教員以外のキャリアパスをもってもよいのではないかと僕は思います。学習は何も学校だけに限られた問題ではない。学習はどこにでも偏在しているのです。もちろん、企業の中にでも。たとえば、企業の人材育成部門や、教育部門などのキャリアパスもあったほうがいいのではないかと思うのです。

 ちなみに、上記は学部の話でしたけど、大学院生だってそうです。大学院をでて、企業の人材育成部門などにつとめるスペシャリストが、もっともっと増えるべきだと僕は思います。

 そういえば、この間、反社会学講座を読んでいたら、あるデータを見つけました。

反社会学講座
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson22.html

教育指標の国際比較(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/001/03080701/005.pdf

 なんと、恐るべき事に、アメリカでは1年間に教育学博士が6716人、教育学修士が12万9066人(2000年度)生まれるそうです。対して日本は何人かというと、博士号が90名。教育学修士が4368名だそうです。うそーというくらい違いますね。なんぼほど多いねん、アメリカの教育学修士と博士は、と思わずどつきたくなる!

 アメリカと日本の人口差は約2倍です。高等教育のもっている強さは、アメリカが桁違いに違う。はたまた、反社会学講座にあるように、アメリカの43%の教員が修士号取得者だそうです。でも、これらの事柄をすべてあわせて考えてみても、修士号、博士号取得者があまりに多すぎる。だって博士号が60倍以上、修士号は30倍近くなのですから・・・。世界的にも見ても、信じられないほど多い。これには他のカラクリがあるはずですよね。

 日米の修士号取得者数

  

 日米の博士号取得者数

上記表はともに文部科学省(2004) 教育指標の国際比較(平成16年度)

 これはデータに基づいていっているわけではありませんが、その違いを説明するには、修士号とか博士号の先に開けるPossibilityやその意味が、日米で異なるとしかいいようがない。

 たとえば、日本で教育学博士をもっていたら、間違いなく大学に勤務するしかないと思うんだけど、それがアメリカでは違うと解釈せざるを得ないということです。アメリカのEd.Dにはその他の道がある。逆に言えば、Ed.Dをとっても、大学には勤務できない人が多い。はたまた、日本で教育学修士というと、博士課程に進学することを前提にして取得する場合か、現職の先生がリカレント教育として取得する場合がほとんどであると思うんです。それがアメリカは違う。Ed.Mをとって、教員以外のスペシャリストになる場合がある。

 日本では、資格とその後のキャリアパスがかなり固定化しているのに対して、アメリカは違うということですね。要するに、アメリカの方が、教育学を学んだ人が活躍できる場が、別に、大学や小学校・中学校・高校だけに限らず、いろいろ広がっているといことです。

 そういえば、先日ASTDに行きましたが、そこで発表している企業の人材育成部門の人に、本当にいろんなところで、Ed.M、Ed.Dをもった人が活躍していてびっくりしました。

 もちろん、この以外にも説明もつきますね。アメリカ社会は日本とは比較にならないほどの学歴社会だと言いました。そして、それ故に、学歴インフレを起こしているというのもそのひとつでしょう。また、これも何度も日記で書いたとおり、アメリカと日本の大学院生活は恐ろしいほど違っているというのもあるでしょう。基本的に、「できる人はできる」というのは日米両国で変わらないと思いますが、簡単に、両国の修士号や博士号、その取得者のポテンシャルを比較するのは、大変危険です。

 まぁ、アメリカの修士・博士についてはもうこのくらいにして、ともかく、僕は日本の企業内教育の現場にそうした人がたくさんでてくるといいな、と思っています。別に学歴をつめばいいと思っているわけではありません。教育学を学んだ、学習について研究した - その知見が生きる知識となって、役立てられる場所が増えればよいな、と思うのです。

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 さて、以上、僕がこの本に書いた思いを3つ述べてきました。しかし、その思いはひとつです。「企業の人材育成と教育研究/学習研究が、もっとむすびつきを強めるべきだ」ということ。それなのです。しかし、その思いは、あまりに壮大ですね(笑)。でも、僕にとっては、この小さな本が、この壮大さに対する最初の1歩なのかな、と思っているのです。

 僕は、このような思いを胸に、これから、このフィールドでいろんな研究をしていきたい。その希望は、次から次へとわいてきて、まるで、飲んでよし、つかってよしのカルデラ温泉のようです。

 千里の道も1歩よりはじまる、ということわざがありますね。むかし、ならった覚えがあります。

 僕はようやく最初の1歩、踏み出したようです。
  その一歩には、緊張感もあります。しかし、それは同時に愉快でたまりません。

NAKAHARA,Jun
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