Essay on reflexivity of Doing Ethnography

1999/03/20

NAKAHARA,Jun
Dept. of Educational Systems Technology
Graduate School of Human Sciences, Osaka University

 先日、当研究室の有志と甲南女子大学の上田氏ゼミの学部生の方数名で、「From Writing Ethnography to Doing Ethnography」という研究会を開きました。研究会の目的は、第一に、とかく一枚岩で語られがちなエスノグラフィの歴史を、それを支える世界観や方法論の相違に応じて整理すること、第二に、エスノグラフィーにおける「記述する」という営みと、学習環境を「デザインする」という営みを概念的かつ理論的に統合をはかること、第三に、その際に、<研究するわたし>、つまりは研究者の問題をどう扱うかということにありました。もちろん、これらすべての問いに答えがでるわけなどなく、参加者各自が様々なテクストを読むことによって、各自の興味関心に応じた新たな「問い」が喚起されたといった感じでした。今回は、先の研究会で扱われた3つの問いのうち、主に第二・第三の問いに焦点をしぼり、それにまつわる僕自身の考えを外化していきたいと思っています。

 さて、これらの問いを考える前に、我々の思考の中に、今ひとつ「reflexivity」という概念を導入してみましょう。「reflexivity」とは「リフレキシヴィティ」と読むわけですが、この舌の回りそうな言葉の発音を覚えるのが、本稿の目的ではありません。「reflexivity」とは、「再帰性」などと訳され、おもに学問の領域では「研究者自身と研究対象の再帰的な関係のこと」をいいます。つまり、研究者と研究対象は、互いに他を構成しあっているということであり、この二つをわけて論じることはできないという意味になるでしょうか。あまりに抽象的なので、今、ひとつの例をだしてみて考えてみることにしましょう。

 今、研究を行っているある人が、ある小学校で、エスノグラフィーを行ったとします。エスノグラフィーを行ったことのある方ならおわかりだと思いますが、学校でエスノグラフィーを行うということは、その学校の成員の一部に「なる」ことが多くの場合求められます。

 子どもの学習活動をみせてもらうかわりに、たとえば、学校に導入したテクノロジーの整備をまかされるとか、授業を記録する係として働くだとか、そういうことが往々にしてあるものです。たとえば今仮に、それほど明確な「役割」が与えられなかったとして、たとえば「壁」のように教室におこる出来事を静かに見つめようと思っても、今度はなかなか子どもたちがそれを許してくれません。なんか知らないけれど教室にいっつもやってくる「おにいさん」・「おねえさん」という具合に認知されたり、あるいは「教生先生らしき人」という風に認知され、子どもたちの学習活動や遊びの活動の中に、知らない内に「からめとられて」しまうことが多々あります。もし、それでも意志の頑強な人で、「僕は絶対に黒子に徹する」といくらがんばってみても、それはどうもうまくいきません。たとえ、子どもの方がそれを許しても、先生は、自分の教育実践を「黒子のまなざし」の中で進めなくてはならないわけですから、研究を行うAさんのまなざしを無化することができない以上、研究するAさんがその場に「いること」による影響はなくなることはないわけで、たとえば、実践の相談役として先生に認知されてしまうことも多々あるようです。また、「まなざし」の中で語られる先生のことばにも何かしらの変容を与えてしまうでしょう。

 つまり、何が言いたいかというと、エスノグラフィーを行うということは、まさに「<研究するわたし>」と「研究対象の子どもや教師や学校」のあいだに再帰的(リフレキシヴィティ)な関係が生じると言うことなのです。つまりは、無化できない<研究するわたし>のまなざしや振る舞いが、研究対象に何らかの影響をあたえ、研究対象に何かしたの「変容」が生まれ、その「変容」が<研究するわたし>に認知され、それに対してまた記述を行うことで、研究対象がさらに「変容する」といういわば循環的関係が生じてしまうのです。こういう関係のことを、先のことば「reflexivity」は表しています。

 このようにエスノグラフィーは、「reflexive」な活動です。それは、<研究するわたし>や、見られる<子ども>や<教師>の意図や信念、まなざしとは無関係に、「reflexive」な活動なのです。この「無関係」というところがポイントです。

 そこで、これを踏まえて今一度、エスノグラフィーについて考えてみましょう。通常、エスノグラフィーの語る言説の多くは、なるべく研究者の研究対象に対する「関与」を否定し、研究対象を「曇りのない目」でみつめ、仮説生成を行うと思われています。つまり、エスノグラフィーが自然科学における「観察(observation)」と同じように認知されているということが多いということです。たとえば、天文学では星の「観察」とかしますよね。天体望遠鏡で星を見ている場合、観察している人間がいくら唸っても、泣いても星の動きがかわることはありません。また観察している人間が、どんな姿勢でその星に望もうとも、たとえば、マクドナルドのハンバーガーを片手にもって、もう片方の手には、フライドチキンをしっかり掴んでいたとしても、まさか観察対象である星が、そんな姿勢に憤慨したり、鼓舞されたりすることはないわけです。かつて、僕はエスノグラフィーを書いた経験がありますが、当時、僕もエスノグラフィーを自然科学的な「観察」と同じ営みだと思っていたことを正直に告白します。

 しかし、先の「reflexivity」の概念を援用すればわかるとおり、我々が普段相手にする研究対象、つまりは研究対象が人間や人間の営みである以上、それは「観察」ではありえないわけですね。人間は星とは違うので、<研究するわたし>の変容やまなざし、そして振る舞いに非常に敏感なわけです。そして、このことが今まであまり注目されていなかったように僕には思えます。エスノグラフィーは「観察」と同じような営みとして理解されていたのではないでしょうか。このことは、そして、それが「観察」のような営みである故に、<研究するわたし>は忘れ去られることになったのではないでしょうか。また自然科学の「観察」の論文に、<研究するわたし>のまなざしや価値や振る舞いが問題とならないように、エスノグラフィーにおいても、<研究するわたし>は、自分の存在を忘れようとしてきたのではないでしょうか。

 エスノグラフィーを行う限り、というよりはむしろ、人間を相手に研究を行う場合、この<研究するわたし>の問題は<忘れられない>ものではないかと僕は思うのですが、いかがでしょうか。

 さて、話を先に進めるために、今、さっきから述べている<研究するわたし>を「忘れることができないもの」として位置づけ、あとの話を続けたいと思います。それでは、この立場を仮に認めたとして、「記述」と「デザイン」の関係はどうあるべきなのでしょうか。この問題を考えるためには、さっきの「From Writing Ethnography to Doing Ethnographhy」の研究会で読んだBrown.A.Lの論文が参考になるように思います。Brownといえば、AERAのpresidentとして活躍しましたし、Reciprocal TeachingやGuided DiscoveryやDistributed Expertiseなど、様々な概念を世に送り出した研究者として有名な人ですね。彼女は、もともとメタ認知や記憶研究、訓練研究の実験心理学者でしたが、そうした研究の知見をふまえてそれとは全く異なる研究アプローチを採用することにしました。

 彼女は、自らの研究アプローチを「デザイン実験(Design Experiment)」と読んでいます。ここでは詳説はさけますが、「デザイン実験」というのは、簡単にいうと、第一に「カリキュラム」や「教師の役割」や「テクノロジー」などの教室に存在する様々な要因を、あえて要因統制することなく、これまでの研究知見に照らして、いろいろ組み合わせて導入(Engineering)し、そのあとで、「どの要因が機能したか」という分析を行うのではなく、どのようにその場の「活動」が変容していったかを見ていくアプローチのことです。

 要因統制をしないというといぶかる方もいるかもしれませんが、そのことは別に<研究>を放棄したとかいうことではありません。もちろん、そういう研究アプローチをとることが学習理論への貢献をあきらめたということを意味しているわけでもありません。また、Brownは、統計などの量的研究を放棄しているわけでもありません。それに関しては、実際に論文を読んでいただけると、おわかりになると思います。

 そして、この論文においてもっとも大切だと思われることは、次の二つのことです。第一に、彼女は、「reflexivity」の問題を「克服すべき問題」というよりは、「研究者が実践に関与する機会」ととらえ、積極的にフィールドにかかわり、実践を変容させようとしています。先にも述べたように、「研究者の関与」というのは、とかく「敬遠されがちな傾向」があるのですが、彼女はそれに対して異を唱え、自らフィールドのデザインのプロセスにかかわっています。この彼女の姿勢から、学ぶべきことは多いように思います。

 また、第二に大切だと思われることは、彼女が「評価」の問題をこのような研究をするアカウンタビリティとしてとらえていることです。通常、アンチ・実験室的な教育研究というのは、「評価」をすっとばすことが多いですね。しかし、彼女は「評価」を実践に付随するアカウンタビリティとして扱っているのです。実際、「Design Experiment」における評価は、様々なものをデータとして扱っています。たとえば、E-mailのログ、プリテスト・ポストテストはもちろんのこと、インタビューの記録も事例的な研究のデータとして採集しています。そして、エスノグラフィーは、「Design Experiment」の評価のところで、大いに役にたつように僕には思えます。たとえば、「子どもはコンピュータを自分の学習にとってどう意味づけるようになったか」とかいう統計などのデータではみえにくい問いがありますが、そういう問いを考察するための方法論として適していると思うのです。

 誤解をさけるために言っておきますが、別に僕は方法論の優劣を論じたり、たとえば量的研究を基礎的研究、エスノグラフィーを応用研究と位置づけているわけではありません。方法論は、研究対象によって変化するのが当然で、そのあいだの優劣を論じることは、僕にとっては不毛だと思われるからです。

 話をもとにもどしましょう。僕がBrownの論文から得た示唆は以下の2点に要約できます。「reflecxivity」を克服すべき問題ととらえるよりは、それを積極的に生かし、実践の変容の契機をつくりだすこと。そして、評価の方法論としてエスノグラフィーを採用するのに意味のあると思われたときは、それを採用すること。

 忘れることのできない<研究するわたし>による記述の営みは、このようなかたちでデザインにむすびつくような気がしています。

(本稿は、1999年夏の某学会の課題研究として発表を予定しております。)

NAKAHARA, Jun
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