人間的かつ無謬な教師という幻想

──「欽八先生は死んだ」──

岡邊 健

東京大学大学院 総合教育科学専攻 比較教育社会学コース

1. 教育社会学における教師研究の動向

 教育社会学の分野では,これまで教師に関する数多くの研究がなされてきた。それはある意味で当然である。少なくとも学校教育についていえば,教師がもっとも重要かつ不可欠なアクターであることは間違いない。そればかりか,いかに制度や組織が変容しようとも,教師の振る舞い方一つで,その意味合いがかなり異なったものになることも明らかだ。そうであるからこそ,教育というシステムを擬人化した表象として,教師が論じられるのである。換言すれば,「教育はAである」という命題は,その背後に「教師はA'である」という命題を抱き込んでいるともいえるだろう。

 以上のことは,今日の学校制度が確立されて以来,いわば自明のことであった。しかし研究の動向は必ずしも一方向ではなかった。『教育社会学研究』で報告されたレビュー論文(伊藤 1971;耳塚・油布・酒井 1988)をはじめとする研究動向への概括的言及がなされている文献で共通して指摘されているのは,次のような流れである。簡約すれば,教職論や教師の社会的地位の研究から,教師集団や教師文化に関する研究を経て,教師の教育行為に迫る研究へと移行していく流れがそれである。さらに概括的にいうならば,教師への研究的関心は,その外部から内部へと遷移してきたといえるかもしれない。

 エスノグラフィーなどの方法の普及もあいまって,今日の教師研究は,授業場面をはじめとする教師の教育行為に関するミクロな分析が支配的である。一方で,ここ数年の広義の構築主義的研究の隆盛と,その一つのアプローチとしての言説分析研究の「流行」のなかで,学校や教師に対する外部からの視点に着目した研究もいくつか現われてきている。たとえば阿部(1992)は,戦後の高校教育に関する新聞の論評・記事を網羅的に検討して,70年代以降の報道が教育現場から「問題」を発掘するスタイルに変わったこと,教師に対する視線もそれにともなって変化したことなどを指摘している。また,広田(1998)は,生活水準や教育水準の向上によって,学校の文化的優位性が失われたこと等の要因によって,学校内部への外部からの関心が高まり,結果として教師と親の関係が拮抗または逆転するようになったと結論づけている。

 本稿は,以上のような教師への視線というアプローチを軸にして,今日の教育において教師がどのように位置づけられるのかを試論的に考えてみたい。その材料として,2つの素材を用いる。一つは,1998年に出された中央教育審議会答申より「幼児期からの心の教育の在り方について」と「今後の地方教育行政の在り方について」の教師に関して言及されている部分である。いまひとつは,久冨善之による教師論のうち「教師像」に関して述べられた論文(1997)である。

2. 中教審答申にみられる教師像

 中央教育審議会が出す答申が,その後の教育行政を全般にわたって方向づけるという意味において,答申は象徴的にも実際的にもきわめて重要な資料である。筆者は,答申に表われる教師に関する記述をみることで,教育行政的な視点からの教師像とともに,今日の社会一般の教師像も,ある程度推量できるものと考えている。そのような視点で,「幼児期からの心の教育の在り方について」(以下A答申)と「今後の地方教育行政の在り方について」(以下B答申)といういずれも1998年に出された2つの答申の記述をみていこうと思う。

 以下では,答申の記述を筆者が析出した2つのパターンに大別してあげていく。

 まず第一のパターンは,「信頼」や「人間性」など教師の人間的な魅力に関する記述である。たとえば次のようなものはその典型である。 ーーーーー

子どもたちからの敬意や信頼を得ることなくして、教員が子どもたちの人間性を豊かなものへと育てていくことはできない(A答申) ーーーーー

この記述にみられるように,教師は敬意の対象であり,教師と児童・生徒のあいだには,信頼関係がなければならないという規範は,今日においてもきわめて強く流布する教師像の重要な前提になっている。これらの規範は,教師のあいだにも根強く,教師に対する意識調査の多くが,望ましい教師像の第一の要素として「生徒との信頼関係の成立」をあげている(酒井・島原 1991など)。そしてそのことから,次のような教師像が引き出される。 ーーーーー

これからの子どもたちに「生きる力」をはぐくむ教育を行っていくためには、人間的な魅力にあふれた教員を確保していく必要がある(同) ーーーーー

 すなわち,教師は高い「人間性」が必須条件なのであり,そうであるからこそ,子供も「人間的」になるという認識がここにはあるのである。さらに,人間性という曖昧な概念でしか語りえない要素が,教師の適格性の有無の規準としても適用される。次の例の場合などである。 ーーーーー

子どもとの信頼関係を築くことができないなど教員としての適格性を欠く者(中略)が子どもの指導に当たることのないよう適切な人事上の措置をとる(B答申) ーーーーー

 一方で,教師にはしばしば「適切」な「指導」というものが期待される。たとえば1980年代半ば以降に問題化した「いじめ」をめぐっては,自殺事件が表面化されるたびに,学校の,なかでも教師の対応が批判されている。そのような背景から,答申でも次に例示するような記述がみられるのであろう。 ーーーーー

すべての教員が、「どんな理由があっても、いじめは絶対に許されない」との認識に立ち、自らの影響力に自信を持って問題解決に取り組むことをお願いしたい(A答申) ーーーーー

 教師の児童・生徒に対する影響力があるとの前提には,確固たる指導理念なり指導方針なりが存在すると考えられる。でなければ,「自信を持って」指導することなどはとうてい考えにくい。すなわち,一つの明確な規準を教師が持ち,その規準のもとに,「毅然と」「果断に」対応することが求められ,それができる教師が望ましい教師であると考えられているわけである。以下の記述も参照されたい。 ーーーーー

情熱を持ち、毅然とした姿勢で力を尽くしている学校や教員を支え、励ましていかなければならない(同) ーー

 問題行動が生じた際に迅速かつ果断に対応していくべきである(同) ーーーーー

 さて,以上にみてきたように2つの中教審答申が示す教師像の要素は,おおまかにいうと次の2点にあるといえるであろう。それは「人間性」と「無謬性」である。教師は人間的でなければ務まらないが,同時に「正しい」判断を,的確かつ毅然とこなすことができなければならない。このような教師像が,中教審答申の背景にある教師像であり,そこから類推判断が可能であるならば,社会一般にも了解可能な教師像の最大公約数であると考えることができよう。

3. 久冨善之の教師論の批判的読解

 前節で示されたように教師像に異なる2つの要素が認められるとすれば,従来の教師論や教師研究の大部分に対して,一定の読み替えや批判が必要になってくる。ここでは,教育社会学の分野では少数派ながら「教育実践」という視点から教師に迫っている久冨の研究のうち,教師像に関わる最近の興味深い論文(1997)を批判的に検討してみたい。

 まず,この論文の趣旨を簡単に紹介する。氏はまずはじめに教師の「多忙」がその仕事の特質とかかわっていることを確認した上で,教師対象の質問紙調査の分析と先行研究の知見をあわせて,次のように結論づける。すなわち,歴史的に形作られてきた「自己犠牲」的な教師像は,教師の倫理のあり方として教員社会に押し付けられ,文化として内面化させられただけではなく,子供・父母・地域にも押し付けられ,それが教師の権威を調達する回路にもなってきた。それは,教師の仕事のもつ不安定性をやわらげる文化的装置の役割も果たしてきたが,今日の日本ではその文化的装置がかつてのようには機能しなくなり,教師のバーンアウトが進んでいるとされる。

 「自己犠牲」的教師像が崩壊してきたという以上の指摘は,先にも触れた広田(1998)の指摘と関わる妥当な論理であろう。しかし久冨はそれに続けて,「本当に大変なのは,何よりまずその子どもであり,その親であるはず」なゆえに,「自分はこんなに頑張っているのに」として自分を犠牲者だと考える教師を批判する。そこで「自己犠牲」的な教師像から,「子どもの実際を直視する」作風に思考を転換すべきであるとするのだ。「子どもの実際を直視する」あるいは「事実そのものを直視する」などの意味が不明瞭ではあるにしても,筆者には,この結論部分の言及にこそ,今日の教師のおかれる困難性が象徴的にあらわれていると思われる。

 おそらく久冨が言わんとしていることは,教師はまだ「本当」の子供の困難を「ありのまま」に見ておらず,それが見えれば,教師の負担感や多忙感も減じるはずであるということである。しかしながら,「本当」の姿を「ありのまま」に見るということは,人間のなせる業ではない。言い換えれば,きわめて無謬性に秀でた理想的教師でなければ,そのようなことは不可能なのだ。結果的に,久冨の結論の指摘は,無謬性の規範を提示することで,「子供の心が理解できない」と悩む教師の悩みをさらに深めてしまうことになりかねないのである。

 「自己犠牲」的な教師像を持つ教師ほどバーンアウトしやすくなるという指摘は,実証の手続きを経て提出された重要な問題提起である。しかしながら,それを明らかにした当の久冨が,教師の「無謬性」規範を再生産する言説を編み出してしまうところに,教師論のパラドキシカルな側面が読み取れる。同時に,教師がおかれる困難性も示唆されている。つまり,いかなる教師像も容易には提示しえない以上,教師の存立は不安定であり続けるしかないのである。

4. 欽八先生は死んだ

 以上の2節でみてきたことを,簡潔にまとめれば,今日の教師像は「人間性」と「無謬性」に代表されており,両者とも確実とは言い難い規範であるがゆえに,教師の存立は,不安定にならざるをえないということになるであろう。

 ところで,学校組織論の古典的な著作で知られるWaller(邦訳 1957)によれば,学校外部の一般の人々は,「劇画化された非好意的な教師像」と「理想化された好意的な教師像」の対立する2つの観念をともに抱いているという。確かにわれわれは,教師を一方で「理想化」する。すなわち暖かな「人間性」をもつ教師を理想とし,同時に,いざとなれば「無謬性」への信頼のもとに,教師にたいして一定の対応や判断を要求し,その要求に適切に対応する教師を理想とするのである。一方で,われわれはまた,教師を「劇画化」することも少なくない。今日においては特に,その「人間性」のうさんくささが嫌われることもあるだろう。「バカ正直」で「きまじめ」な教師は,しばしば馬鹿にされる。同時に,柔軟性に欠いた頑強な「教育理念」の実現に燃える教師の偏狭さは,「無謬性」を疑う子供の軽蔑や嘲笑の的にさえなってしまうのである。

 ここで,人間的かつ無謬である教師とは,論理的には矛盾した存在であることに留意すべきである。人間的であれば,誤った判断もしばしばある,すなわち無謬ではない。逆に,無謬であれば,どんな状況でも,そしてあらゆる親または子供の要求にも,一つの「正しい」対応が即座にできるかもしれないが,そのような機械的判断は,人間的判断とは対極にあるものであろう。けっきょくわれわれは,しばしば教師にたいして,論理的にはまったくありえないような規範を投影しているのである。少なくともそのことに気づく賢明さがあるならば,むやみに教師に責任を帰するようなことには自ずと慎重になるであろうし,いたずらに過剰な教育への期待もなくなるかもしれない。

 以上の指摘は,実際的には次のような論点を引き出すだろう。たとえば,経済的にも時間的にも多くのリソースが投入される研究校や実験校での試みが成功しているからといって,そこでの試みを安易に一般化することはできない。昨今の教育改革にはそのような安易さがしばしば見受けられるが,実際には,学校や教師が持っているリソースは,多くの場合限定的なものなのである。「成功例」があるから,ただちに全国すべての学校のすべての教師がそれをやって「成功」するとは限らない。「良い」教師を前提にした議論にはおのずと限界があるといえよう。

 「人間的かつ無謬な教師」は幻想にしかすぎないことを,われわれは確認すべきである。あるいは,教師に過剰に負わされた実現不可能な規範が,学校教育の望ましい姿──それが想定できるとすれば──にとってマイナスに働いている側面があることを,少なくとも認識すべきであろう。一時期一世を風靡した「欽八先生」は,確かに人間的でかつ無謬であったかもしれない。しかし彼を存立せしめたのは,脚本というフィクションのなかであったことに,われわれは気づく必要がある。

5. 文献

阿部耕也 1992 「高等学校をみる社会的視線の変容」 門脇厚司・飯田浩之編『高等学校の社会史』有信堂

広田照幸 1998 「学校像の変容と<教育問題>」 佐伯胖他編『岩波講座現代の教育2 学校像の模索』

伊藤敬 1973 「教師の社会学」に関する文献」 『教育社会学研究』28

久冨善之 1997 「教師のバーンアウト(燃え尽き)と「自己犠牲」的教師像の今日的転換:日本の教員文化・その実証的研究(5)」 『一橋大学研究年報 社会学研究』34

耳塚寛明・油布佐和子・酒井朗 1988 「教師への社会学的アプローチ:教育動向と課題」 『教育社会学研究』43

酒井朗・島原宣男 1991 「学習指導方法の習得過程に関する研究:教師の教育行為への知識社会学的接近」 『教育社会学研究』49

Waller,W. 1932 _The Sociology of Teaching_ (石川脩平・橋爪貞雄訳,1957 『学校集団──その構造と指導の生態』明治図書)


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NOMAD Coordinator
Jun NAKAHARA
Educational System Technology
Graduate School of Human Sciences
Osaka University
1-2 Yamadaoka,Suita-city,Osaka
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