研究する<わたし>が学校にいる<あなた>

に語りうること

-意図のなき実践の考察-

Why can researcher know what educational practice seems to be like?

Jun NAKAHARA

Educational System Technology

Graduate School of Human Sciences,Osaka University

1. 個人的な経験

 かつてあるところで、公開授業とその学校主催の校内研究会に参加させてもらったことがある。観察させていただいた授業は国語の授業で、「個性に応じた作文教育」をその教育目標としていた。授業自体は、非常に円滑にかつなんの問題もなく進んだ。しかし、その後に行われた校内研究会で筆者は<教師の意図>という、その後の筆者の研究に大きな波紋をなげかけることになるアポリアに遭遇することになる。

 さて、本稿のテーマは「研究する<わたし>が学校にいる<あなた>に語りうること」ということである。しかし、この問題と直接向き合ったのでは、おそらく思弁的かつ当為論的な考察にならざるを得ない。よって、筆者はこの問題を考察するために、敢えて先の<個人的な経験>をもとに考察を進めたい。

 校内研究会には、校長・教頭・指導主事といった管理職をはじめとして、公開授業を観察するために来校した他校の先生も参加していた。研究会自体は、活発であったとはお世辞でも言えない。実践者から、授業の流れについて一通りの説明があった後、授業を観察していた何人かの先生からコメントをいただく段になった。

 そして、その時、ある先生が実践者の先生にむかって、こういう発話をした。以下、それをトランスクリプトとするので参照していただきたい。

A先生『ええと、先生は、あのとき○○君に△△という特別の支援をなさいましたが、その意図は・・・その意図はどんなことだったのでしょうか?』

  (B先生の顔を見て・・・)

  (B先生沈黙5秒・・・苦笑)

B先生『・・・・・意図ですか?・・・・意図と申されましても、この授業は子ども達の個性に従って、やっているので、意図は・・・とくべつございません。』

A先生『・・・・え・・・そう、そうですか』

B先生『・・・・・・・・』

 ほんの短いやりとりである。ある者の「問い」とある者の「答え」。エスノメソドロジストが発見したような会話の隣接ペアがそこにも見て取れる。しかし、よく考察してみると、この会話はかみあっているようで、かみあっていない。すなわち、「意味のBreakdown」が起きていることがわかる。以下、それについて考察してみよう。

 ここでまずA先生は、純粋な意味でB先生の「○○君に△△という特別の支援」をした際の「意図」について問いをはっしている。ここでいう「意図」とは、文字通り「ある行為をする際の思考過程・判断の根拠」である。しかし、「特別な支援」-この場合は、実践の流れからは明らかに乖離した行為・教育的な働きかけを行ったB先生の方は、それにもかかわらず、換言するならば、そうした行為が「特別」であるにもかかわらず、「特別な支援」をした際に、実践者として特別な<意図>はなかったとしている。しかし、この発話はA先生の「意図」の語彙からすれば、どうしても納得はできない。なぜなら、A先生にとって、「意図」とは「ある行為をする際の思考過程・判断の根拠」であって、いかなる行為・教育的働きかけにもそれは付随していなければならないからである。それならば、B先生にとっての<意図>とは一体いかなる語彙をもっているのだろうか?それは、会話の流れ(The flow of conversation)から類するに、以下のように解釈可能であると考えられる。まず、B先生が「子どもの個性に従って、やっている」というところに着目しよう。B先生は、この実践を「子どもの個性に従って、やっているもの」であると認知している。また、次の会話「意図は・・・とくべつございません」から、「子どもの個性に従って、やった実践」を組織するということと「自らの<意図>が介在する実践」というものを、相対するものと捉えていることがわかる。いわば、B先生にとっての<意図>とは、「子どもを強制する教師の教育的働きかけ」と理解可能である。

 A先生にとっては、いかなる教育的な働きかけも「意図」を媒介として組織されるものであった。しかし、そんなA先生の発話は、「子どもの個性にしたがって、やっている実践」とは、<意図>のないものでなくてはならないと解釈するB先生には、誤解されざるをえない。B先生にとっては、A先生の発話が『子どもを無理矢理教師の「おもうところ=意図」に導いていること』を糾弾しているかのごとく聞こえたのである。

 さて、この出来事から僕は何を考えるに至ったか?それはこれまで、端的にいうならば教育の言説、或いは教師は、「教師の意図」を「教育実践を悪しくするもの」としてひたすら覆い隠してきたのではないか?ということである。またそれが言い過ぎならば、こう言ってもよい。今まで教育の言説は、「よい実践」を「教師の意図のなき実践」とし、それを夢想してきたのではないか。

 たとえば、現代はとくに「個性に応じた教育」の時代だそうだが、この「個性に応じた」・「子どもの主体性を重視した」実践の成立の条件を、これまでの教育の言説は「教師の意図がなるべく教室に反映していないこと」に求めてきたのではないか?そして、我々はともすれば「教師の意図がある」から、「個性に応じれない」・「子どもの主体性が重視されない」実践が生まれるという「何とも安易なステレオタイプ」を受け入れてきたのではないか?

 僕はこのいわゆる「個人的な経験」から、自らそんな問いを生み出した。

 ところで、当為論的な立場からではなく、現場のエスのグラフィーを通して、教師の「意図」を理論化した教育学者(教育社会学者というべきという方もいらっしゃろうが、敢えて筆者を教育学者と言いたい)にWoods.Pがいる。彼の「survival strategy」の概念は、教室をひとつの権力空間ととらえ、教師や子どもが、まさに「生き残るために」、自己創出する「ある決まり切った対処戦略」を象徴的に語り得た。しかし、「教育の現場」をまさに「生き残りの場」と捉えたWoods.Pは、ともすれば教室の中の象徴的権力を「無化」する言説として読まれる傾向がある。その傾向は、本稿で直接問うことはしないが、ここではwoodsの論文の中にある一節を紹介する。

『教育実践がprogressiveであるか、conservativeであるかという二分法は、教室における教師の意図の問題を隠蔽してしまう。教師の意図は、たとえ「子供中心主義」の教育実践であれ、「常に」教室を支配している。』

 このWoodsの議論を参考にするなら、我々は以下のような認識に至る。つまり、どんな授業をしても、どんなに教師の意図を無化するような、生徒が「自発的」かつ「能動的」に動く実践を行いえたとしても、たとえ、それが実現したとしても「教師の意図」を教室から、完全に消去することはできないということである。現実の教室が真空ではないように、教師のいきる場、すなわち教室は意図のない<真空>の場ではないのである。そして、教室に「消すことの出来ない教師の意図」が常に存在し、それを媒介に「教育実践」が組織化されるのだとしたら、今、やらなければならないことは、「意図のないよい実践」を夢想することよりも、「教師の意図」を前提として、教室や学習の形態について、再組織・再考察を試みることであろう。

2. 研究する<わたし>が語り得ること

 さて、前節ではある<個人的な経験>を媒介に、教師の意図を無化するような学習は存在しないこと、換言するならば、教室には常に教師の意図が存在する場であり、それをあたかも「存在しない」かの如く振る舞うことは、幻想にすぎないことを指摘した。そして、それをふまえて、教師の意図を前提とした教室・学習形態の再模索を続けるべき事を主張した。しかし、こういった議論が実践の場で語られることはきわめて少ない。再度あるエピソードを紹介する。先日、ある会合で東京に行った際、ある物理の先生と話す機会がもてた。彼はネットワークを利用した非常に先進的な実践を行っているが、その実践について語る際に、以下のような発話をした。

C先生『そうはいっても・・・(自分のやっていることが)・・・わたしの思い通りに生徒を動かしているだけだ・・・って批判されることも多いんだけど・・・』

筆者『でも、そういう「思い通り」が時によくない方向にいくことも・・多いのですが、それでも、それにもかかわらず、先生は「思い通り」を貫いた方が、新しい実践を生み出すことになると思います』

 学校変革の声は、近年かまびすしい。確かに「心の教育」も必要である。しかし、学校の日常が、「教室」という場で行われる「授業」という営みから組織されていることに思いを馳せるとき、学校変革が、その場から生まれることがもっとも現実的であると、筆者は個人的に考えている。研究する<わたし>が学校にいる<あなた>に語り得ること、それはそんな現場の実践者が心に描いている「思い通り」に関する素朴な<誤解>をとくことと、「思い通り」を観察し、「思い通り」の意味を明らかにし、それを語ることであると考えられる。

3.Reference

○Woods,P. 1980. Strategy in teaching and learning. In Woods,P (ed) Teacher Strategy.Croom Helm.


Back?

NOMAD Coordinator
Jun NAKAHARA
Educational System Technology
Graduate School of Human Sciences
Osaka University
1-2 Yamadaoka,Suita-city,Osaka
jun@mmgate.hus.osaka-u.ac.jp