Essay From Lab : 生放送のエスノグラフィー

0. プロローグ

 いつも悩んでしまうことなのだが、エスノグラフィー、つまりはある現場を自分が観察して、その記録を残すという営為に、観察者として自分が従事しようとするとき、現場で生起する出来事の何からはじめに記述すれば、その現場のリアリティを余すことなく伝えることができるのだろうか。この問いに対して、僕は積極的な答えをいまだもっていない。よって、「生放送のエスノグラフィー」と題されたこの文章も、取り留めもない単なる記述になってしまうかもしれない。また、観察して記録を残すといっても、わずか一回の観察で、その現場の出来事が記述できるというわけでもない。だから、このエスノグラフィーには、記述していない出来事や僕が誤解して解釈している出来事もおそらく複数存在することになると思う。以上2つの事柄をまずご了解いただきたい。今回は、NHK教育「たったひとつの地球」の生放送の現場を観察する機会を得ることができた。

 以下、筆者が渋谷のNHK放送センターにあるスタジオにはいってから、そこをでるまでの観察記録である。以下、1節では僕が「生放送」という実践を観察した記録が時系列にしたがって記述されている。

1. 生放送という実践

1. 1. 生放送前の打ち合わせへ

 9時20分にNHK放送センターの西口で待ち合わせをして、スタッフの谷中さんにつれられて、生放送前の打ち合わせへ参加させてもらうことができた。あとでもらった今日のスケジュールによれば、出演者打ち合わせは午前9時から開始されているらしい。打ち合わせを行っていた部屋は10畳くらいの大きさで、真ん中のテーブルをはさみスタッフおよび出演者をはじめとした9人の方々が打ち合わせをしている。
 僕は部屋の奥のひとつのいすに案内され、CP(Chief Producer)の箕輪さんから今日の台本と関係資料をいただく。僕が部屋にはいったときには、丁度PDの山田さんから全員にむけて、セリフの説明がなされている。この打ち合わせに参加している人々は、黙ってそれを聞いているわけではない。そのつどそのつど、自分のセリフの関係する場所で、山田さんに説明を求めており、時に意見がかわされ、台本の編集が行われたりしている。僕が座っている位置から各自のもっている台本に目を配ってみると、それぞれが各自の役割にあわせて、台本の関係する場所、つまりはセリフなどをマーキング(Marking)している。マーキングは、蛍光ペンか赤ペンで行われているようだ。山内さんは、PC上に台本をもっており、キーボードをたたきながらそれを適宜編集している。

 山田さんからの説明が終わったあと、山田さんはじめスタッフの方々の何名かは席をはずし、出演者によるセリフ読みがはじまる。結城アナウンサー、清水さん、山内さんが主にセリフを話している。子どもやキャラクターのセリフに関しては、フロアディレクターの奥西さんがセリフをかわりに読んでいる。出演者たちは、台本にかかれてあるセリフをそのまま読んでいるわけではない。自分なりにコトバにアレンジを加え、さらに形式的なセリフをより会話調にそのつどそのつど編集しながら、セリフ読みが行われている。清水さんは、時折アドリブを駆使する。それに従って、他の出演者のセリフも変わっていく。また、他人の変わっていくセリフにあわせて、台本に新たな演出やせりふが書き込まれていく。このあと、4度僕は同じセリフを聞くことになるが、一度として同じやりとりがなされたことはない。即興的なアレンジによって、常にセリフは構成され、更新されていることがわかる。

1. 2. スタジオいり

 セリフ読みが終わり、スタジオ入りする。スタジオは、30畳くらいの大きさで天井が高い。天井には多くの照明がぶらさがっている。僕はとっさに上をみるが、このスタジオをのぞき見るような窓は上にはない。おやっ?と思う。僕のイメージと違う。僕が今まで抱いていたスタジオのイメージでは、上の方に窓があって、そこにプロデューサーやディレクターがいる部屋、つまり副調整室があるはずなのだが、そのようなスタジオを眼下に見渡すような窓はどこにも見あたらない。スタジオの左後方に長い階段があって、それが上のほうにのびているのはわかるが、どこにのびている階段なのかは、そのときの僕にはわからない。

図1 NHK放送センター 413スタジオ

  図1に見るように、スタジオにはセットがすでに組まれており、その前にカメラが3台ある。カメラの両横には、テレビが2台づつおかれており、一方ののテレビにはカメラ映像が、下のテレビには時間が表示されている。また、出演者のすぐ前にも移動可能なテレビがおかれており、そこにはカメラ画像が表示されている。移動式のテレビの横には、画用紙とマジックが置かれている。これはFDの使用するものだということが後からわかる。生放送の間中、今回の放送でFDを担当していた奥西さんは、マジックと画用紙をもって、出演者に時間の進行を伝えていた。「たったひとつの地球」の生放送は、10時45分から11時までの15分間である。生放送であるということは、出演者のセリフや行為や演技に、時間の制約が加わるということを意味する。時間を映し出すテレビと画用紙とマジックは、時間という制約を出演者に伝えるアーティファクトである。

 スタジオの中には、関係者が10名いる。カメラマンが3名、CPの箕輪さん、出演者の清水さん、結城さん、山内さん、照明さんなどの方々などである。他の人は、少なくともこの観察においてどのような役割を担っているのかはわからない。

 僕がスタジオにはいったとき、出演者はすでにセットの定位置に座っていた。メイクはすでに打ち合わせのときに終わっているとのことだったので、出演者をセットの定位置に座らせ、どうやらカメラテストなどを行っているようだった。ひとりのカメラマンから、アシスタントらしき若い人に叱責がとぶ。

「位置決めのときと、場所がズレたんだったら、それをカメラと照明さんに伝えてよ。どうして、それをはやく伝えないの?」
「すみません。わかりました。」
「位置決めと変わったら、カメラと照明さんに伝えないとダメでしょ」

 そのようなやりとりをしているようだ。後から聞いた話だが、出演者や画面にはいるモノの位置というのは、放送にとってモノスゴク重要なことらしい。位置が少しでもズレると、逆光になったりして綺麗に画像がとれなくなるということだ。照明さんは生放送の数時間前から、出演者やセットにあわせて照明を調整するらしい。照明の調整は、長い竹竿のようなツールを用いて、直接、天井からぶらさがっている照明を動かすことで行われる。万年貧乏、万年肩こりの僕は、「照明さん、肩がコルだろうなぁ」と思ってしまう。話がズレた。

1. 3. ドライ

 「ドライ」というコトバが何を表示しているかは部外者の僕にはわかりかねるが、とにかく現場に居合わせる人々は口々に「ドライ」というコトバを使い始めた。これは放送業界だけに通じるジャーゴンであろう。そのあとにおこった出来事から類推するに、どうも「スタジオにはいってから一番最初のリハーサル」のことを「ドライ」といっているらしい。リハーサルのリハーサルという意味だろうか。以下、誤解かも知れぬが、そのような意味で「ドライ」という用語を用いるものとする。

 ドライがはじまる。スタジオに「オトナになっても知りたいことが・・・」というテーマ曲が流れる。程なくして出演者がカメラに向かって話し始める。先ほど、ミーティングルームでのセリフ読みと同じセリフが読まれることはない。ところどころ変わっている。清水さんのセリフもかわっていれば、結城アナウンサーのセリフもかわっている。清水さんにいたっては、アドリブで挿入するギャグも変わっている。しかし、会話が途切れること、つまり会話の流れがBreakdownすることはほとんどない。セリフが変わること、そして変わったセリフをリソースとして自分の振る舞いを変えていくこと、振る舞いが変わったことをリソースとして番組自体を再構成すること、そうした複雑な行為をいわば「アタリマエ」にように出演者はこなしている。不思議に思って、僕は清水さんと結城さんの視線を見る。彼らの視線は、ときおり下の台本を見ているが、その注視の長さは、ほんの1秒足らずである。台本を読んでいるのではない。台本を時折確認しながら、会話をしているのである。つまり、出演者にとって台本は「どのように振る舞うか?」「どのように話すか」を「決定」するスクリプトではない。出演者は、台本をいわばリソースとして、現在の振る舞いやコトバを発している。

 今日の放送の内容は、名古屋の港西小学校とのテレビ会議である。内容を大まかに話すと、港西小学校の小学生が、スタジオにむかって自分たちの調べ学習の成果を語るというものである。調べ学習の対象は「米」らしい。農薬を使っている米、農薬をつかっていない米を素材とした環境教育として、その実践を捉えることはいささか乱暴ではあるけれど、ご容赦いただきたい。スタジオに向かって子どもたちはただ語りかけるのではない。ここには工夫があり、子どもたち自身が放送局を持ち、自分たちの番組を放映しているかのように演出されている。子どもたちがつくったこの放送局のことを、「米コメ放送局」と呼んでいる。

 ドライが終わる。なにやら現場が騒がしくなり、照明の調整などが誰の指示もなく行われている。カメラの位置も調整されているようだ。出演者は、なおも自らのセリフについて互いに討議している。いったい、これらの決定事項は、いつになったらホントウに決まるのだろうかとこちらがドキドキする。

1. 4. カメリ

 ドライと同じように現場の人々に共有されている専門用語がとびかう。「カメリ」と言っているようだ。おそらくは、「カメラリハーサル」のことであろうと推測される。ドライのときは、スタジオの隅で僕らは観察をしていたが、こちらの方に箕輪さんがやってきて、「副調に行きます」という。おそらく、今度は副調でカメリを観察するのであろう。副調には階段をのぼっていけるらしい。スタジオと副調をつなぐ階段の真ん中の踊り場には、ひとりのスタッフの方が下のスタジオを見ている。

 3階に副調はあった。奥の重そうなドアには、「CT-413副調」と書いてある。
 副調とよばれる部屋には、10名前後のスタッフの方々がいた。それぞれが必要なときにコミュニケーションをとっており、さしずめその雰囲気は「戦場」である。様々な人々が分散された役割をもっており、そのつどそのつど互いの役割に応じたコミュニケーションを他者と営みつつも、その役割の進行を相互にモニタリングしつつ、仕事が達成されている。誰かが中央実行系をつかさどっているのではない。時々の指示は、CPやPDからとぶことがあるが、それが全てではない。つまり、CPやPDの指示は、そこに居合わせる人々の行為やコミュニケーションを「決定」しているのではない。それはいわば、「リソース」である。人々は、自らの役割に応じて、そしてCPやPDの指示をリソースとして、自らの振る舞いを「選択」している。

図2 NHK放送センター CT-413副調

 丁度、図2に見るように、副調は10畳ほどの部屋である。副調の前面には、多くのモニタがおかれており、多数の異なる画像が映し出されている。モニタには、スタジオの3つのカメラの画像、名古屋の中継カメラの3つの画像、番組のキャラクターのCGなどである。モニタには、それぞれ番号がつけられているようだ。
 副調前面から後ろにわたって2列に机が編成されている。前の机には、右から照明さん、ヴィデオエンジニア、TDスイッチャー(Technical Director Switcher)、PD、音声さんが腰掛けている。それぞれの前には、おそらく画像や音声をコントロールする放送機材が並べられている。TDスイッチャーの横には、同じくTDの先輩らしき人がついている。
 音声さんの後ろには、つまり後ろの机の一番左側には効果をつけるスタッフの方がいて、その横にCPの箕輪さんの座席、TV電話を制御するスタッフ、インターネットを操作する方の座席がある。副調室右側には、D3ラックというラックがあり、そこにはビデオデッキがおかれている。ビデオデッキに差し込まれるビデオテープは、今回の放送では3本あり、そのうちの2本には「生放送タイトル」「生放送サブタイトル」と書いてあるのがわかる。もう一本のビデオテープのタイトルも観察したのが、あまりにフィールドノートに刻まれた僕の字が汚すぎて読めない。フィールドワーカーとしては反省の至りである。

 副調にいた時間は、わずか15分ほどであったが、そこでの人々の動きとあとで箕輪さんから聞いた話から、この現場に居合わせる人々の役割がおおよそ類推可能である。照明さんは、モニタにうつしだされている画像を見ながら、下のスタジオと行き来している。ビデオエンジニアは、ビデオの画質を調整している。TDスイッチャーは画像の切り替えである。PDは、TDスイッチャーと密接にコンタクトをとりながら指示をしているようだ。PDの山田さんの「声」によって、全体の活動の流れがコントロールされているように見える。山田さんは「スタート」のとき、「指パッチン」をする。業界人みたいでかっこよい。いやいやいや、業界人なんだよ。
 音声さんは、「目の前の制御卓にあるスライダーバー」の行方をみている。スライダーバーは、音声に応じて右往左往している。音声さんの右手と左手は、制御卓の何かのスイッチの上に置かれているようだ。CPの箕輪さんは、座席にすわったり、下のスタジオにいったりしている。全体を見ている感じだ。名古屋の港西小学校とのTV電話の前にすわっているスタッフの方は、右手に電話をもっている。この電話は、つなぎっぱなしになっており、時折、こちらの指示を名古屋に伝えている。インターネットを操作するスタッフの方の前には、3台のコンピュータがある。そのうち彼女は2台を操作しているが、一方のPCには「本番」と書いてあり、一方のPCには「予備」と書いてある。おそらく、生放送でPCがフリーズしたときのために2台コンピュータを用意しているのであろう。コンピューターには、「放送障害をふせぐため、このコンピュータの設定を変えるな」という旨の張り紙がしてある。

 ここで僕はひとつのオモシロイことに気づく。副調からスタジオを俯瞰するような窓がないことはすでに述べたが、なんと、スタジオを俯瞰するようなカメラもないことがわかる。モニタに写されているのは、あくまで出演者を撮影しているカメラの映像であり、スタジオで起こっている出来事の全体像を副調に伝えるカメラは存在していないのである。副調に居合わせる人々にとっての「今、ここ」のリアリティとは、あくまでカメラを通した放送用の画像であり、それ以上でも以下でもない。それでは、副調とスタジオはどのようにコミュニケートしているのか。そのコミュニケーションテクノロジが、「インカムレシーバー」と呼ばれる無線機だ。おおかたのスタッフは、このレシーバーを耳に装着している。
 あとから聞いた話によると、レシーバーが伝える音声は、それほどクリアなものではないという。時に聞こえないこともあるらしい。それでは、このように隔絶した二つの部屋にいる人々は、どのように相互作用を営み、どのように「生放送」という実践を協同で達成しているのであろうか。僕の興味はそこに注がれる。

 カメリがはじまる。ドライとカメリの違いは、少なくとも僕の観察による限り、名古屋の小学生がカメリのときには、きちんと演技をすることにあると思われる。ドライのときには、小学生は演技を行わず、おそらくは現地のスタッフであろう大人によって、台本が代わりに読まれていた。あとで聞いた話だが、小学生は、この日の撮影のために2週間の猛特訓をしたらしい。彼らの真剣な眼差しが、モニタから伝わってくる。

 ここである出来事が起こる。副調室が急に騒がしくなりはじめた。小学生のセリフをよむスピードがどうも予想よりも遅かったせいらしい。スタッフの中のひとりが「スタッフカードだな」という。「スタッフカード」というのは、名古屋の小学生が自前のテレビ局のスタッフカードをつくっていたというエピソードのことで、本来ならば番組開始10分後に挿入されるエピソードであった。にわかにPD、スイッチャー、CPなどが話し合いをはじめ、台本に修正が加えられるようになったようである。つまり、このエピソードをカットするのである。台本は、いまだ完成していない。局所的に、かつ、即興的に台本に修正が加えられる。彼らの意志決定(Dicision Making)のスピードは速い。意志が決定されるまで1分もたっていない。その意志は、誰かが指示することなく、レシーバーを使ってスタジオに伝えられ、さらにTV電話の前に座っていたスタッフによって名古屋に伝えられる。
 またここで出来事が起こる。子どもが発言しているとき、互いにマイクを手渡すのだが、その手渡しの音が気になるという指摘が音声さんからなされる。また、子どものセリフが一部、名古屋で修正されていたようで、前のセリフにもどすように確認がなされる。またもや、名古屋との電話をもつスタッフによってその意志が伝えられる。こうして本番10分前、カメリが終わった。僕らはスタジオの今までいた場所とは丁度反対側に移動することになる。

1. 5. 本番

  10時40分。本番を観察するために、下のスタジオに戻る。今度は、ドライのときにいた場所とは、丁度反対側のスタジオ右後方で観察を行う。箕輪さんから、「ケイタイの電源を切ること」と「その場を動かないこと」が指示される。いよいよなのだ、今、この場所から全国にむけて放送が開始される。
 本番3分前になる。山内さんが僕らの方に近づいてくる。山内さんは、台本のはいったPCをもって、台本の修正をしているようだ。ちょっとの間、山内さんと話したあと、セットの裏側に目をやると、セットの裏にはどうもセットの配置をかいた地図がはりつけてある。セットの位置というのは、このようにセットそのものに書かれてあって、それをリソースとしてセットが毎回組まれているのだということがわかる。

 10時45分。本番開始だ。先ほどのテーマ曲が流れて本番がスタートする。僕はFDの奥西さんの動きを見ている。奥西さんは、画用紙とマジックをもって、いろいろスタジオの中を動き回っている。奥西さんが動くのは、カメラが出演者に向けられていないとき、つまり放送中の画像にこのスタジオのカメラの画像が用いられていないときである。時に画用紙にマジックで何かを書きながら、また時に両手を横に延ばして出演者にサインをおくっている。「時間がおしていること」「時間を延ばしてほしいこと」などを伝えているようだ。「指を巻く動作」と「両手でパンの生地をのばすような動作」が印象的である。また、出演者のカメラへの目線や振る舞いを管理しているのもどうも奥西さんらしい。今、副調で選択されているカメラに向かって出演者が手を振ることや目線をあわすことを、ボディランゲージで伝えている。また、彼は同時に出演者が確認する移動型モニターなどの位置を、微妙に動かしているようだ。どんな規則でそれを動かしているのかは、僕にはわからない。

 かくして、あっというまに15分の本番は終了した。

 本番終了後は、出演者と子どもたちがTV電話でフリーに会話をしている。箕輪さんの話によれば、「TVとはそっけないもの」であり、時間との制約で「編集」されたり「使用」されなかった画像がでてくるものであるという。だから、せっかく子どもたちがこの日のために準備してきても、当日の状況によって必ずしもすべてが放送されるとは限らない。だから、子どもたちを裏切らないためにも、このような時間を必ず設けているのだという。
子どもたちと清水さん、結城さん、山内さんがTV会議を通して談笑している。子どもの中には、清水さんに「あのねのね」をやってという子どももいて、スタジオ内は笑いにつつまれる。

 かくして生放送は終わった。

2. 再考

 以下、以上の記述をもとに、特に僕が気になった点を再考してみたい。考察すべき点は、台本についてと、スタッフの協調作業についてである。

2. 1. 台本

 生放送当日、出演者は少なくとも4度のセリフ読みをおこなっている。1度目は、ミーティングの最中、2度目はドライ、3度目はカメリ、4度目は本番である。しかし、これまで記述してきたように、出演者は必ずしも同じセリフをしゃべってはいない。むしろ、その時々の他の出演者の声にあわせて、その内容にあわせて、自分の語り得ることばを構成している。その意味で、出演者のセリフは、互いに自分たちのセリフに対する制約となっている。たとえば、清水さんがアドリブをきかせた発話をおこなったときには、おのずから、そのつぎに結城さんや山内さんが語り得るセリフのレパートリーは決まってしまう。また、結城さんや山内さんのアドリブのかえしは、その後の清水さんの発話は決定してしまうだろう。このように台本を読むという行為は、そもそも協同的な行為であり、決して独りの出演者の独演によって達成されているわけではない。
 この点を非常に不思議に思った筆者は、生放送終了後、出演者に質問をしてみた。

「どの程度セリフって決まっているものなのですか?」

 それに対する答えは、「ある程度は決まっているけれど、それが絶対じゃなくて、自分のことばで言い換えたりしなければならない。でも、何度もリハーサルをするから、そのあいだにおのずから可能なセリフのレパートリーがお互いにわかってきて、それでだんだんうまくなる」ということだった。なるほど、出演者はある程度、セリフにレパートリーをもっていて、他者の発話に対してそのつどそのつど、このレパートリーの中からセリフを構成しているものらしい。

 
2. 2. スタッフの協調作業

 やはり今回の観察で一番驚かされたのは、スタッフの協調作業であろう。スタッフは主にそれぞれ異なった役割をもっていつつも、お互いに協調しつつ、生放送を達成している。たとえば、今回の生放送のリハーサル中に、何度かミスがあった。ひとつは、PDが画面切り替えの指示をだしたときに、うまく画面が切り替わらなかった事例。もうひとつは、インターネットの操作をオペレーターが間違えた事例である。いずれの事例においても、スタッフは、協調してうまくこのミスを乗り切る。たとえば、前者の事例に関して言えば、画面の切り替えがうまくいかなかった瞬間に、PDとTDスイッチャーが一瞬向き合い、ミスを目で確認し、それをみた後ろの机の電話スタッフが即座に、名古屋に対して、このミスが東京のNHK側のミスであることを伝える。これがもしうまく処理されない場合は、今回のような中継の場合、どこにミスの所在があるかわからず、リハーサルは一時Breakdownを余儀なくされてしまうことになるだろう。
 また、スタジオと副調間の協同作業に関して言えば、お互いの場所にいるスタッフの顔は見えない。インカムレシーバーという無線機を介したコミュニケーションでやりとりはしているものの、そのレシーバー自身はそれほどの情報量を互いにもたらすわけではないようである。しかし、この協調作業に関しても、スタッフは滞りなく達成する。
 ここからは類推の域をでないが、このような協調作業が可能になるためには、「ある場合にスタッフがどのように動くか?」というような知識をお互いに共有している必要があるように思う。しかし、このような知識は、形式的な知識というよりは、むしろ暗黙知という知識であろう。それではなぜこのような暗黙知がお互いに共有可能なのか。それは、もしかすると生放送前の数度にわたるリハーサルや打ち合わせで共有可能な形式で互いに伝達されているのかもしれない。あるいは、ディレクターが一人前になる過程の中で、FDやPDなどの業務を様々に兼務していき、結果として様々な役割についての暗黙知がひとりのディレクターに内面化されているのかもしれない。この問いに関しては、これ以上はわからない。いずれにしても、スタッフがどのような学習をして、いかに協同作業を達成できるようになるか、という問いは、考察の価値のある問いと思われる。考察の価値があるというよりも、「学習」を研究している人間としては、これ以上に興味深い話題はない。

3. エピローグ

 以上、わずか2時間たらずのフィールドワークの中から、僕が見たこと、感じたことなどをつれづれと書いてきた。本来ならば、もう少し精密に分析すべきところも類推ですましているし、ここであげてきたわずかな事例は、もうしばらく検証されなければならない。文章を半疑問のかたちで結句した場所も多々ある。それに関してはご了承願いたい。最後に、このような貴重な観察の機会を与えてくれた山内さん、NHKの箕輪さんににこの場を借りて、感謝の意を表したい。本当にありがとうございました。


NAKAHARA, Jun
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