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2005年12月08日

スライドづくり屋さん

 このところ、毎日毎日来る日も来る日も、パワーポイントを使って、スライドをつくっている気がする。いい加減、もう飽きた。

 昨日、夢の中で、僕は、なんだか悲しい歌を歌っていた。

 チムチムニー、チムチムニー、チムチムチェリー
 私は、スライド作り屋さん
 チムチムニー、チムチムニー、チムチムチェルー
 毎日スライドつくってる
 皆さん聞いてくださいな

 今週も、続く。
 

投稿者 jun : 08:12

2005年12月07日

Early Exposure

 先日、京都大学大学院の三原さんに、Learning bar@Todaiという研究会で、講演をしてもらいました。「医師を育てる」ために、卒前・卒後にどのような教育カリキュラムを組んでいるのか、について話してもらいました。

 三原さん自身の研修の経験も、いくつか語ってもらいましたが、とても知的にオモシロイ時間を過ごすことができました。今回のLearning bar@Todaiでは、何人かの医師の方も参加したのですが、彼らからもあとからメールをもらいました。よい時間を過ごしていただけたようで、何よりです。

 僕はこの研究会から学んだこと、いっぱいあるんだけども、特に、「医学教育の世界」と「教師教育の世界」・・・それぞれを比較してみると、教師の専門性を高めるっていう議論をするときに、どうしても、足りてないものがあるんですね。それがよくわかりました。

 これはちょっとセンセーショナルなことでもあるので、また、機会があったら、飲み屋で話しましょう。でも、「専門性を高める」ってのは、戦略的に行わなければならないってことがわかりました。

 この研究会で得た気づきは、結構、多岐にわたっていて、その多くは今も整理がつかないでいるけど、オモシロいなぁと思った考え方に、「Early exposure」っていうのがありました。

 医学カリキュラムの中で、「解剖実習」ってのがあるそうです。要するに、ホトケさんの解剖ですね。

 これ、やっぱり、医学生のアイデンティティのよりどころになるらしいのですが、それをやる時期を、なるべく早くするっていうことが試みられているらしいのですね。そうすると、これから学ぶことの全体像がみえるのと、動機の向上につながる、という。

 教師教育の世界でも、これに似た考え方は一部あるのですが、もっと本格的に導入するとよいのかも、と思いました。

 たとえば教育実習短期版を1年生にもってくるとかね(既に試みている大学はあると聞いています)。

 ほんのマネゴトでもいいから、専門的なカリキュラムの中で、もっとも印象的なものは、最初にもってきた方がいいような気もするのです。もちろん、ほとんど高校生のような大学1年生を現場につれていくのは、ホントウに大変なことではあるけれども。

 ---

 とにかく、いろいろ勉強になりました。三原さんには、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。

投稿者 jun : 23:53

2005年12月06日

ジム

 カミサンといっしょに、家の近くにあるフィットネスジムに運動にいきました。

 僕は、夏頃まで、大学のジムを使っていたのだけれど、なんだか、ちょっと「仕事場のジムにいく」ってのは、あずましくなくって(北海道弁だね・・・落ち着かないという意味です)、リラックスできず、結局、秋になる頃には、すっかり行かなくなってしまっていたのですね。

 そんなわけで、久しぶりに、休日に民間のジムにいったんだけど、やっぱりいいですね。とても落ち着く。

 特にここは、とても綺麗で、従業員の対応も非常に好感がもてます(東大のジムも従業員さんの応対は丁寧です)。

 今日は、運動する前に「Dr.フィットネス」という体力測定をやりました。結果は、「標準体重よりも3キロ痩せすぎ。筋肉少ないため、体脂肪率がやや高」という感じでした。

 筋肉すぐに落ちてしまうのですよね、困ったものです。筋肉つけると、落ちたときにすべて脂肪に変わるから、僕は、あんまりマシンはやらないようにしているんだけれども。

 まぁ、久しぶりに走ったり、チャリのったり、腹筋したり、なんだかいろいろやって、最後は「アロマ・ヒーリング」というストレッチのクラスにでてきました。やや照明暗めのスタジオで、アロマの香の中で、ストレッチするのです。癒してくれ、オレを。

 今度いくときは、「Hip Hop」とかやってみたいね、ぜひ。なんか、今日、スタジオの外から、他の人がやっているのを見て楽しそうではあった。

 ちょっと激しすぎるかな・・・レッスンの途中で、死んでしまうかもしれないけど。

投稿者 jun : 23:37

2005年12月05日

電話喫茶

 先日、ある書籍の執筆者会議で、「かつて日本に電話喫茶なるものがあっ
たのだ!」ということが話題になった。

 「電話喫茶」とは、文字通り「電話のある喫茶店」で、パーティションで区切られたところに、ガーっと電話が並んでおり、恋人同士の待ち合わせなどに使われたらしい。

 これがあったのは、今から30年くらい前、1970年前半~80年くらいまでとのことで、当然のことながら、僕はそれを見たことはない。渋谷や池袋などの繁華街に、存在していたのだという。

 残念なことに、電話喫茶の正確な利用方法は、誰も覚えていなかった(誰か知っている方、いますか)。執筆メンバー全員で、「きっと、待ち合わせ場所に行けなくなった場合は、そこに電話をかけ、取り次いでもらう」というルールだったのではないか、と推察していた。

 まぁ、ほぼ100%に近い若者が携帯電話をもつ時代から考えれば、そんなものがあって、商売として成立していたってのが、正直驚きである。

 ---

 振り返って考えるに、「携帯電話は、恋愛のあり方を変えた」。

 携帯電話がない昔・・・とはいっても10年くらい前までは、「待ち合わせですれ違った場合は、<逢えない>ということを意味していた。

 今、なかなか「待ち合わせで逢えなかった」という話しをあまりきかない。これは、間違いなく、携帯電話の影響だろう。

 それが誰もが携帯電話をもつようになって、「待ち合わせ場所の指定も、かなりアバウトになってきた。

 場合によっては、「新宿で10時ねー」という待ち合わせもアリになってきた。かつては、「新宿西口の小田急中央改札だよ、1Fだからね、地下じゃないよ、地下はJR。絶対に間違わないでね」とかなり正確に場所をつげる必要があったのに。

 ---

 また、僕らの子ども時代は、家に1台しか電話がない家庭の方が多く、家庭の電話機は多くの場合、みんなの集まる茶の間におかれていた。

 だから、異性のおうちに電話をかけるというのは、大変な勇気がいるもので、それで「オヤジなんかがでた日」には「アチャパー」ってなことがよくあった。

 「○○さん、いますか?」といったとたん、ムスッとして、電話をかわられる。中には、「うちの子になんの用だ?」と凄まれたヤツもいた。

 たとえ電話を取り次いでもらえても、相手は茶の間で話している。そこには、オヤジや家の人がいるから、大きな声では話せない。

 電話を取り次いでもらったら、まず開口一番「Yesか、Noかで答えてね」といった具合に、なるべく話しの内容を察知されないように、電話をしていたことを思い出す。

 ---

 まぁ、いいや。

 あんまり昔のことばっかり話してると、「オマエもオヤジになったな」って言われるから。

 でもさ、そういうドキドキ感、たとえば、「待ち合わせの場所を間違えて」、半殺しにあっちゃうとか(そんなのヤダ)、異性のうちに電話して、オヤジと気まずい雰囲気になるとか、そういう経験を、ぜひ、もって欲しいなと思うけどね、今の子どもたちにも。

 そういうドキドキ感も、恋愛の醍醐味だと思うけども。

投稿者 jun : 23:22

電話喫茶

 先日、ある書籍の執筆者会議で、「かつて日本に電話喫茶なるものがあっ
たのだ!」ということが話題になった。

 「電話喫茶」とは、文字通り「電話のある喫茶店」で、パーティションで区切られたところに、ガーっと電話が並んでおり、恋人同士の待ち合わせなどに使われたらしい。

 これがあったのは、今から30年くらい前、1970年前半~80年くらいまでとのことで、当然のことながら、僕はそれを見たことはない。渋谷や池袋などの繁華街に、存在していたのだという。

 残念なことに、電話喫茶の正確な利用方法は、誰も覚えていなかった(誰か知っている方、いますか)。執筆メンバー全員で、「きっと、待ち合わせ場所に行けなくなった場合は、そこに電話をかけ、取り次いでもらう」というルールだったのではないか、と推察していた。

 まぁ、ほぼ100%に近い若者が携帯電話をもつ時代から考えれば、そんなものがあって、商売として成立していたってのが、正直驚きである。

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 振り返って考えるに、「携帯電話は、恋愛のあり方を変えた」。

 携帯電話がない昔・・・とはいっても10年くらい前までは、「待ち合わせですれ違った場合は、<逢えない>ということを意味していた。

 今、なかなか「待ち合わせで逢えなかった」という話しをあまりきかない。これは、間違いなく、携帯電話の影響だろう。

 それが誰もが携帯電話をもつようになって、「待ち合わせ場所の指定も、かなりアバウトになってきた。

 場合によっては、「新宿で10時ねー」という待ち合わせもアリになってきた。かつては、「新宿西口の小田急中央改札だよ、1Fだからね、地下じゃないよ、地下はJR。絶対に間違わないでね」とかなり正確に場所をつげる必要があったのに。

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 また、僕らの子ども時代は、家に1台しか電話がない家庭の方が多く、家庭の電話機は多くの場合、みんなの集まる茶の間におかれていた。

 だから、異性のおうちに電話をかけるというのは、大変な勇気がいるもので、それで「オヤジなんかがでた日」には「アチャパー」ってなことがよくあった。

 「○○さん、いますか?」といったとたん、ムスッとして、電話をかわられる。中には、「うちの子になんの用だ?」と凄まれたヤツもいた。

 たとえ電話を取り次いでもらえても、相手は茶の間で話している。そこには、オヤジや家の人がいるから、大きな声では話せない。

 電話を取り次いでもらったら、まず開口一番「Yesか、Noかで答えてね」といった具合に、なるべく話しの内容を察知されないように、電話をしていたことを思い出す。

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 まぁ、いいや。

 あんまり昔のことばっかり話してると、「オマエもオヤジになったな」って言われるから。

 でもさ、そういうドキドキ感、たとえば、「待ち合わせの場所を間違えて」、半殺しにあっちゃうとか(そんなのヤダ)、異性のうちに電話して、オヤジと気まずい雰囲気になるとか、そういう経験を、ぜひ、もって欲しいなと思うけどね、今の子どもたちにも。

 そういうドキドキ感も、恋愛の醍醐味だと思うけども。

投稿者 jun : 23:22

電話喫茶

 先日、ある書籍の執筆者会議で、「かつて日本に電話喫茶なるものがあっ
たのだ!」ということが話題になった。

 「電話喫茶」とは、文字通り「電話のある喫茶店」で、パーティションで区切られたところに、ガーっと電話が並んでおり、恋人同士の待ち合わせなどに使われたらしい。

 これがあったのは、今から30年くらい前、1970年前半~80年くらいまでとのことで、当然のことながら、僕はそれを見たことはない。渋谷や池袋などの繁華街に、存在していたのだという。

 残念なことに、電話喫茶の正確な利用方法は、誰も覚えていなかった(誰か知っている方、いますか)。執筆メンバー全員で、「きっと、待ち合わせ場所に行けなくなった場合は、そこに電話をかけ、取り次いでもらう」というルールだったのではないか、と推察していた。

 まぁ、ほぼ100%に近い若者が携帯電話をもつ時代から考えれば、そんなものがあって、商売として成立していたってのが、正直驚きである。

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 振り返って考えるに、「携帯電話は、恋愛のあり方を変えた」。

 携帯電話がない昔・・・とはいっても10年くらい前までは、「待ち合わせですれ違った場合は、<逢えない>ということを意味していた。

 今、なかなか「待ち合わせで逢えなかった」という話しをあまりきかない。これは、間違いなく、携帯電話の影響だろう。

 それが誰もが携帯電話をもつようになって、「待ち合わせ場所の指定も、かなりアバウトになってきた。

 場合によっては、「新宿で10時ねー」という待ち合わせもアリになってきた。かつては、「新宿西口の小田急中央改札だよ、1Fだからね、地下じゃないよ、地下はJR。絶対に間違わないでね」とかなり正確に場所をつげる必要があったのに。

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 また、僕らの子ども時代は、家に1台しか電話がない家庭の方が多く、家庭の電話機は多くの場合、みんなの集まる茶の間におかれていた。

 だから、異性のおうちに電話をかけるというのは、大変な勇気がいるもので、それで「オヤジなんかがでた日」には「アチャパー」ってなことがよくあった。

 「○○さん、いますか?」といったとたん、ムスッとして、電話をかわられる。中には、「うちの子になんの用だ?」と凄まれたヤツもいた。

 たとえ電話を取り次いでもらえても、相手は茶の間で話している。そこには、オヤジや家の人がいるから、大きな声では話せない。

 電話を取り次いでもらったら、まず開口一番「Yesか、Noかで答えてね」といった具合に、なるべく話しの内容を察知されないように、電話をしていたことを思い出す。

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 まぁ、いいや。

 あんまり昔のことばっかり話してると、「オマエもオヤジになったな」って言われるから。

 でもさ、そういうドキドキ感、たとえば、「待ち合わせの場所を間違えて」、半殺しにあっちゃうとか(そんなのヤダ)、異性のうちに電話して、オヤジと気まずい雰囲気になるとか、そういう経験を、ぜひ、もって欲しいなと思うけどね、今の子どもたちにも。

 そういうドキドキ感も、恋愛の醍醐味だと思うけども。

投稿者 jun : 23:22

電話喫茶

 先日、ある書籍の執筆者会議で、「かつて日本に電話喫茶なるものがあっ
たのだ!」ということが話題になった。

 「電話喫茶」とは、文字通り「電話のある喫茶店」で、パーティションで区切られたところに、ガーっと電話が並んでおり、恋人同士の待ち合わせなどに使われたらしい。

 これがあったのは、今から30年くらい前、1970年前半~80年くらいまでとのことで、当然のことながら、僕はそれを見たことはない。渋谷や池袋などの繁華街に、存在していたのだという。

 残念なことに、電話喫茶の正確な利用方法は、誰も覚えていなかった(誰か知っている方、いますか)。執筆メンバー全員で、「きっと、待ち合わせ場所に行けなくなった場合は、そこに電話をかけ、取り次いでもらう」というルールだったのではないか、と推察していた。

 まぁ、ほぼ100%に近い若者が携帯電話をもつ時代から考えれば、そんなものがあって、商売として成立していたってのが、正直驚きである。

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 振り返って考えるに、「携帯電話は、恋愛のあり方を変えた」。

 携帯電話がない昔・・・とはいっても10年くらい前までは、「待ち合わせですれ違った場合は、<逢えない>ということを意味していた。

 今、なかなか「待ち合わせで逢えなかった」という話しをあまりきかない。これは、間違いなく、携帯電話の影響だろう。

 それが誰もが携帯電話をもつようになって、「待ち合わせ場所の指定も、かなりアバウトになってきた。

 場合によっては、「新宿で10時ねー」という待ち合わせもアリになってきた。かつては、「新宿西口の小田急中央改札だよ、1Fだからね、地下じゃないよ、地下はJR。絶対に間違わないでね」とかなり正確に場所をつげる必要があったのに。

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 また、僕らの子ども時代は、家に1台しか電話がない家庭の方が多く、家庭の電話機は多くの場合、みんなの集まる茶の間におかれていた。

 だから、異性のおうちに電話をかけるというのは、大変な勇気がいるもので、それで「オヤジなんかがでた日」には「アチャパー」ってなことがよくあった。

 「○○さん、いますか?」といったとたん、ムスッとして、電話をかわられる。中には、「うちの子になんの用だ?」と凄まれたヤツもいた。

 たとえ電話を取り次いでもらえても、相手は茶の間で話している。そこには、オヤジや家の人がいるから、大きな声では話せない。

 電話を取り次いでもらったら、まず開口一番「Yesか、Noかで答えてね」といった具合に、なるべく話しの内容を察知されないように、電話をしていたことを思い出す。

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 まぁ、いいや。

 あんまり昔のことばっかり話してると、「オマエもオヤジになったな」って言われるから。

 でもさ、そういうドキドキ感、たとえば、「待ち合わせの場所を間違えて」、半殺しにあっちゃうとか(そんなのヤダ)、異性のうちに電話して、オヤジと気まずい雰囲気になるとか、そういう経験を、ぜひ、もって欲しいなと思うけどね、今の子どもたちにも。

 そういうドキドキ感も、恋愛の醍醐味だと思うけども。

投稿者 jun : 23:22

電話喫茶

 先日、ある書籍の執筆者会議で、「かつて日本に電話喫茶なるものがあっ
たのだ!」ということが話題になった。

 「電話喫茶」とは、文字通り「電話のある喫茶店」で、パーティションで区切られたところに、ガーっと電話が並んでおり、恋人同士の待ち合わせなどに使われたらしい。

 これがあったのは、今から30年くらい前、1970年前半~80年くらいまでとのことで、当然のことながら、僕はそれを見たことはない。渋谷や池袋などの繁華街に、存在していたのだという。

 残念なことに、電話喫茶の正確な利用方法は、誰も覚えていなかった(誰か知っている方、いますか)。執筆メンバー全員で、「きっと、待ち合わせ場所に行けなくなった場合は、そこに電話をかけ、取り次いでもらう」というルールだったのではないか、と推察していた。

 まぁ、ほぼ100%に近い若者が携帯電話をもつ時代から考えれば、そんなものがあって、商売として成立していたってのが、正直驚きである。

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 振り返って考えるに、「携帯電話は、恋愛のあり方を変えた」。

 携帯電話がない昔・・・とはいっても10年くらい前までは、「待ち合わせですれ違った場合は、<逢えない>ということを意味していた。

 今、なかなか「待ち合わせで逢えなかった」という話しをあまりきかない。これは、間違いなく、携帯電話の影響だろう。

 それが誰もが携帯電話をもつようになって、「待ち合わせ場所の指定も、かなりアバウトになってきた。

 場合によっては、「新宿で10時ねー」という待ち合わせもアリになってきた。かつては、「新宿西口の小田急中央改札だよ、1Fだからね、地下じゃないよ、地下はJR。絶対に間違わないでね」とかなり正確に場所をつげる必要があったのに。

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 また、僕らの子ども時代は、家に1台しか電話がない家庭の方が多く、家庭の電話機は多くの場合、みんなの集まる茶の間におかれていた。

 だから、異性のおうちに電話をかけるというのは、大変な勇気がいるもので、それで「オヤジなんかがでた日」には「アチャパー」ってなことがよくあった。

 「○○さん、いますか?」といったとたん、ムスッとして、電話をかわられる。中には、「うちの子になんの用だ?」と凄まれたヤツもいた。

 たとえ電話を取り次いでもらえても、相手は茶の間で話している。そこには、オヤジや家の人がいるから、大きな声では話せない。

 電話を取り次いでもらったら、まず開口一番「Yesか、Noかで答えてね」といった具合に、なるべく話しの内容を察知されないように、電話をしていたことを思い出す。

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 まぁ、いいや。

 あんまり昔のことばっかり話してると、「オマエもオヤジになったな」って言われるから。

 でもさ、そういうドキドキ感、たとえば、「待ち合わせの場所を間違えて」、半殺しにあっちゃうとか(そんなのヤダ)、異性のうちに電話して、オヤジと気まずい雰囲気になるとか、そういう経験を、ぜひ、もって欲しいなと思うけどね、今の子どもたちにも。

 そういうドキドキ感も、恋愛の醍醐味だと思うけども。

投稿者 jun : 23:22

2005年12月04日

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投稿者 jun : 23:15

2005年12月02日

日本の教師再生戦略

 あるプロジェクトでご一緒している先生から、この本の話しを聞きつけた。早速注文し読んでみた。

千々布敏弥(2005) 日本の教師再生戦略:全国の教師100万人を勇気づける. 教育出版, 東京 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4316801694/nakaharalabne-22

 なるほど、よくまとまっている本だと思う。教師教育/授業研究のことをコンパクトにわかりやすくまとめた本として、まだこの領域を知らない人にとっては、非常に助かる本なのではないかと思う。

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 なぜ現代の教育改革において、教師がツライ状況におかれているのかを解説した第一章。たしかに、マスコミ、文部科学省、教師は「三すくみ」の状態にある。

 第二章、第三章、第四章は、最近米国で流行している「Lesson study(要する日本の授業研究)」についての解説と、教師教育のパラダイム転換となった「Reflective practicioner」の概念についての説明である。

 僕個人は、「Reflective practicioner」の概念だけで、教師の専門性確立できるというナイーブな認識には、やや懐疑的な見方をしているが、いずれにしても、それが重要な概念であることは間違いない。

 第六章では、米国に比べて専門性の低い「教育センター」に焦点をあてた議論を行っている。

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 この本が「全国の教師100万人」を直接勇気づけるかはどうかはしらないけれど、近年の教育の混迷をとく鍵は、米国ではなく「日本にあるのだ」という認識は、とても共感できる。

 日本の教師は、報酬にかかわらず、自らお互いの実践を批評する文化を、学校の中に内包している。そのことは、あまりに自明なことであるが故に、注目すらされないできたが、世界的に見るとはスゴイコトであるようにも思う。

 「学校の再生は、ふだんの教室の授業から」

 今日、そういうスローガンを掲げた学校改革の1年をおったビデオを見た。うまくいかないはじめての公開授業、先輩教師からの厳しいコメントのすえ、教室で悔し涙を流す新米教員。病魔をおして最期のときまで学校改革に取り組んだ校長先生・・・。見ていて、涙が止まらなかった。

 たぶん、涙を流した教員は、きっと、この小学校を巣立つときがあっても、このカルチャーを新しい学校に伝えるだろう。病魔と闘い果てた校長先生の思いは、きっと、ここに集った教師たちに語り継がれるだろう。

 そうだ、「青い鳥は、家の中にいる」のかもしれない。

投稿者 jun : 23:09

2005年12月01日

クリエィティブのカミサマ

 クリエイティブのカミサマ、降臨!
 
 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

 「ストーリー」+「ウォーキング」+「おやこ」の合わせ技でどうだ!

投稿者 jun : 16:44