Essay From Lab : 感情をこめろ!

僕は、学部時代、卒業論文の執筆のため、都内のある小学3年生の図工をフィールドワークしていた。図工の授業と行っても、いわゆる「一斉授業」形式の授業ではない。コンピュータを含める多様な「学習材」がふんだんに存在する「工房」的な教室で、大学生を中心とする「様々な文化的背景」をもつ人々が、そこでの営みに参加し、多様な活動が展開する-そんな「非」学校的な授業を、参与観察する機会を得させていただいた。ここでの知見は、おいおい論文になり、このホームページ上である程度公開して行くつもりではあるが、今日の話は、その知見とはあまり関係がないものの、非常に重要な、いわば「こぼれてもらっては困る話」である。それは、端的にいってしまえば、『表現したいとは何か?』という一言につきる。

-僕がこの問題について考えるようになったのは、最近、授業のテープおこしをしていたときのことである。前述した僕の観察している授業では、かつて僕が小学生の頃、図工や音楽、加えて詩の朗読などの授業で、教師から頻繁に言われた「ある決まり文句」が一度も「発話」されていないことに気がついたのである。

『感情をこめなさい!』・『感情をこめて、もう一度!』

-僕はこの言葉を何度となく聞いたことだろう。

卒業式でおきまりの「よびかけ」、学校祭での「演技」・「演奏」、普段の国語の授業での「朗読」、リコーダーの独唱。「芸術的領域」のありとあらゆる場面で、この「決まり文句」が教師の口から発話され、そして、それを聞いた子どもは、「感情」を「こめて」、自らの声に、演技に、演奏に「うそくさい盛り上げ」を施すのであった。

-最近、あるバラエティ番組を見ていて知ったことだが、いわゆる「青春ドラマ」には、ある「定型的」な「演技」の仕方、セリフの発音の仕方があり、役者は、そうしたドラマに出演する際、その定型化した「ことば」と「身のこなし」を敢えて「身にまととわ」なければならないという。そして、そうして演じられた「青春の風景」はお茶の間の涙を誘う。

-先の「感情をこめたうそくさい盛り上げ」は、たとえていうのならこの「青春ドラマ的」な「ことば」と「身のこなし」にそっくりである。「感情を込めろ!」という教師の言葉を聞くと、子どもたちは「教師が喜ぶような、「学校化」された「ことば」と「からだ」を演じ、教師はそれを「すばらしき表現活動」として奨励するのであるから。

-僕は小学校の頃から、この種のカラクリに気づいていた。

しかし、僕がいくら抵抗しても、教師は「感情をこめろ!」を繰り返すばかり。結局、小学校高学年の時には、音楽担当の先生とケンカして、自らそれまで担当していた楽器の演奏をおりた。音楽室のドアを思いっきりしめて、廊下を走り、誰の来ない河原に行き、ひたすら泣いた。いうまでもないことだが、「感情を込めろ!」というのと、「表現すること」は違う。ましてや「感情が自然とわきあがって表現する」のと「感情をこめろという発話に強制され演じる」ことには、はっきりとした「断絶」がある。

感情をこめろ!というのなら、その前に、感情が「自然」にわきおこる「状況」なり「コンテンツ」がなければならない。そのことを教師は「知らない」か「知って」いても気にかけない!

鉄砲の「弾」を「こめる」んじゃあるまいし、「感情」を「こめる」ことなんてできるかい!

-「コンピュータと教育」の領域では、コンピュータを使った「表現」活動がはやりである。そして、そういう実践は「新しいメディア」を使って「表現する」だけで、「価値」があるものと見なされる傾向がある。新しいメディアを使っただけの「実践」だから、「So what?(だから何なの?)」と言われても、あとに実践者は「沈黙」せざるを得ない。

-「表現したいとは何か?」・「そもそも表現はいかなるときに生まれるか?」-そういう「問い」が活動の中に「埋め込まれていない」実践は、レコード大賞を受賞する際のどこぞの歌手の「涙」のように、ウソくさく、ウソを演じなければならない子どもにとってこの上なく迷惑である。


NAKAHARA, Jun
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