Essay From Lab : Newcomerと国際理解

-『New comer』、聞き慣れない言葉である。意味は、文字どおり「新参者」。家の事情で来日し、一定期間日本で過ごすことになった外国人などを含む、彼ら自身がまとう「文化=意味体系」と我々の「文化」との間に軋轢(conflict)を生じさせる可能性のある人々のことを指示することばである。今日は、この『New comer』についてすこし考えてみたい。

-先日、ある人と話していたら、こんな話が出てきた。彼女が授業観察をしている某小学校の学区では、『New comer』が特に多いという。そして、その子弟の多くは学校で、非明示的に「やんわり」と排除されているというのだ。その過程を彼女はこう語る。

「特に言葉ではっきり拒絶されていると言うわけではなく、たとえば、あるNew comerの女の子はよく給食をおかわりするよね。給食をおかわりするというのは、普通の小学校高学年の女の子にとってはタブーでね、それを平気でしちゃう。すると、まわりがそれとわからないように、彼女を馬鹿にするようになるでしょ。自分の「残した給食」を「〜ちゃんにあげなよ」とかいってみたりするようになる。

あるNew comerの男の子はね、いくら明日持ってくるものや宿題を連絡帳に書いても必ず、忘れて来るんだけれども、ほら、彼のお母さんって日本語がほとんどだめじゃない。だから、いくら連絡帳に書いても、お母さんがそこに書いてあることを読めないから、駄目なわけ。で、結局、彼は先生に「だらしない子」ってラベリングされて、挙げ句の果てには彼の親まで「だらしない親」になる。で、周りの子どもも先生のことばには敏感だから、うまくそれに同調して、先生と一緒になって彼を「馬鹿」にする。」

-上の話から容易に推察が出来るとおり、『New comer』を排除する「構造」は、彼らを取りまく「文化」や「学校」・「生徒」の規範の中に「埋め込まれて」おり、それを是正することは非常に難しいと言わざるを得ない。人によっては、そういった「排除の構造」を、外国人によるteam teachigや講義などによって是正しようとする向きもあるが、ことはそう簡単な話でないのである。現に、この小学校では、「国際理解教育」をうたい、外国人(なぜか西欧人である)を授業中に招待し、子どもたちの国際理解を促進しようとしているが、それを聞いた子どもたちは一応は納得するものの、中にはこのような発言を平気でする子もいるという。

-その事件は前述したNew comerの女の子、「えりかちゃん」が自分のフィリピンのおじいちゃん、おばあちゃんの話を、給食中、班のみんなに向かってしている時のことだった。得意になって自分の故郷フィリピンについて語るえりかちゃんに、ある女の子が、こう言ったという。

「えりかちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんの服装って、裸に葉っぱじゃなかったの?」

-先に述べたとおり、この小学校では「国際理解教育」を全校的な取り組みで推進していたのだから、その女の子も、みんなと同じようにかの「お説教」を聞いていたに違いない。「外国人を差別してはいけない。」・「外国人と相互の理解を深めなければならない。」という「お題目」は彼女の耳にも間違いなく入っていただろう。しかし、彼女にはその「意味」が「わかって」いなかった。

-近年の社会学の一派は、こうした「排除の論理」・「差別の論理」が、人々の絶え間ない相互交渉の結果、そのつど「構築」され、「更新」されていくものであることを明らかにしている。脱文脈化され、半ば教条化された「教育的お題目」よりも、自分のすぐ身近にいる「New comer」に思いを馳せること。そういう「身近さ」の中からしか、人々の「納得に基づく共生(symbiosis)」は生まれ得ないと思うのだが、どうだろうか?


NAKAHARA, Jun
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