Essay From Lab : 教えこみ拒否強迫神経症

最近、とみに気になることがある。

「子どもから発せられた問いを教師は、生かさなければならない」
「子ども自身からわき上がる思いを教師は、くみ取らなければならない」
「子どもの関心にそった学習を、教師は方向付けなければならない」

 といったような言説が巷を闊歩していることだ。

 もちろん、これらの言説に100%異議を唱える気は毛頭ない。
 しかし、今一度考えてみれば、これらの言説は、いわば「反証」ができないことに気づかされる。なぜなら、「子どもから発せられた問いを、教師は無視してよい」だとか「子ども自身からわき上がる思いを教師は、ふみにじってよい」だとかいう「逆命題」は、どうしても「生理的」に認めることができないからだ。教育に携わるものにとって、これらの「逆命題」を認めてしまえば、「教育者不適格」、否、「人非人」のスティグマをたちまちはられてしまうであろう。

 かくして、これらの言説に人は異議を唱えられない。いや、異議だけじゃない。この命題を、時に「疑うこと」や「考えてみること」さえ人はできなくなってしまう。「疑うこと」「考えること」は、スティグマ付与のだから、彼はただただ沈黙する。
 沈黙すること、それだけで話が終わるならまだましだ。言説に対する疑いや内省がないということは、他ならぬ自分が、言説の「再生産」に寄与してしまうことを意味する。つまり、何か人に問いを投げかけられたときに、これらの言説をオウムがえししてしまうことになるのだ。

 畢竟、コトバがコトバ本来の意味を失い、虚ろなコトバが現場に響く。

 誤解して欲しくないのだが、僕は、この「逆命題」を認めろ!と言いたいわけではない。僕が言いたいこと、それは、どんなに「美しい教育言説」でも、それが反証不能なときに、それは「毒」にもなるという、ごくごくアタリマエのことだ。
 しかし、「アタリマエ」とは言ったものの、問題はそれほど単純ではない。「規範」は、人を安心させる機能ももっている。「もし〜ならば、〜しなければならない」という規範ほど、人を縛り、同時に人を安心させるものはない。この規範のパラドクスこそが、事態をさらに悪化させる。
 人は不確実性の中で生きることを、なるべくなら避けたいと思う。ある状況や現象に対して、とりうる行動や行為が決まっていることほど、この不確実性を容易にさける方法はない。
 ここで我々はひとつの結論に至る。つまり、言説は人を強制し、それに人があがこうとしてもあがけない状況をつくりだすと同時に、そのあがけない状況の中で、人は不確実性を避け、安住し、言説を再生産してしまうということだ。
 つまり、言説と人は共犯関係にある。

 先日、我が研究室有志による週末ミーティングで、現代の教育の閉塞状況は、これら「子ども中心主義」的な命題の過剰解釈にある、というような話がでた。僕は、これに「教え込み拒否強迫神経症」という名前をつけた。「強迫神経症」というからには、「病」にかかっているのは、「個人」と思われそうだが、それは間違っている。「病」は、教育言説を生み出すシステムそのものに内在し、再生産されている。

 教育言説を生み出すシステム?


NAKAHARA, Jun
All Right Reserved 1996 -