Essay From Lab : Fragment 9. それにもかかわらず評価

2000/04/07 Update

 今週は雑誌論文の修正があったり、国際学会の原稿があったり、各種申請書類の提出があったりで、結構忙しかったのですが、それでも、こんだけこのページが更新されているところを見ると、結構、僕ってヒマだったのかなぁと思います。あるいは、よほど語り足りないんでしょうか。最近、研究室にあんまり人がいなくて、潜在的に「語りたがりー」になっているかもしれません。自分で言うのも何ですが、僕は「寂しがり屋」です

 それにしても、ここだけの話ですが、申請書類をガシガシ作っていて、僕は、あらためて「オヤクニン」さんにはなれないなぁと思ってしまいました。まぁ、こんな僕でも、大学の教養学部に入学したばかりの頃は、「官僚ってのもいい感じだよねー」とナメた口をきいていたのですが、僕には絶対に無理です。自分という人間をわかっていなかった、あまりにケツの青いワカモノでした。書類をつくっていると、ケツに「プツプツ」とジンマシンがでてきちゃうんですね。おいおい、ケツが「青い」だけじゃなくて「プツプツ」かい! 汚いってーの。

 でもね、研究の文章なら、いくら書いても何とも思わないのに、「これを書いてもどうせ誰も読まないんだろうなー」というような「形式的な文章」を書いていると、無性にハラがたってきちゃうんです。

 誰だ、こんなもん書かせんのは!!!

 とアッパーラリアットをかませてやりたくなる。でも、あまりに面倒くさいので、ハラを決めて気が狂ったようにガシガシと書類をつくってしまいます。だから、なぜかこういう書類は大嫌いなのに、それを処理するのは異様にハヤイ。きっとハタから見たら、恐ろしい形相をしながら作業をしているんでしょう。どうせあとからやらなければならない「プレイフルじゃないこと」からは、さっさと片づけて、あとは逃避するってのが僕のポリシーです。すみません、そうやって、今まで生きてきちゃったりしました。

 ところで、今日は、「評価」について僕の思うところを述べます。「評価」っていうと、通信簿や内申書を連想してしまいがちですが、残念ながら今日の話はそういう話ではありません。あくまで、「教育工学」や「情報教育」における評価です。

 教育工学でも情報教育でも何でもそうなんですが、何か「やったら」、それが「どういう意味をもっていたか」を振り返ることって重要だと思うんです。そういう意味での、つまり「振り返り」としての評価ってことについて、僕の思うところを述べたいと思います。

 さて、一般に教育工学や情報教育では、研究や実践の進行には3つのプロセスをへると言われています。これは僕が言っているわけじゃなくて、一般的にはそう決まっているようです。いわゆる「開発 - 実践 - 評価」という3つのプロセスですね。最近は、一部から、このプロセス自体の有効性そのものが問われているようですが、まだまだ一般的には、このプロセスにしたがって、研究や実践がなされている模様です。

 以下の図を見てください。ちなみに、関西の一般ピープルは「どうでっか」とか「やってもうたがな」というコトバを使いません。これを言うのは、明石家さんまくらいなもんです。ハッキリ言って、2年前関西にきてはじめてこれを知りました。それまでの僕は、関西人ってーのは、みんな、「○○してまんがな」とか「そうしまひょ」と言っているのかと思っていました。これは大きな誤解です。


Fig. 1 研究や実践のサイクル

 さて「開発」っていうのは、要するに「何か新しいコンセプトやテクノロジー」を提案して、つくりあげるところまでを指しますね。簡単にいうと、「こんな試み、どうでっか?」ということです。たとえば、僕の研究で言うならば、僕は「たくさんの人々がコミュニケーションしながら学んでいく、知識をつくりだしていくためのソフトウェア=CSCL」を開発するっていうのが専門なのですが、実際にそういうソフトウェアをつくるのが、「開発」っていうやつです。

 シブヤの「センター街」でのナンパじゃあるまいし、適当に「行き当たりばったり」でつくるわけじゃないですよ。ちゃんと文献を読んで、それまでのソフトウェアの問題点を踏まえて、あとは、現在の社会状況や社会的意義を一応は踏まえて、作り始めます。そういえば、僕の学部時代の指導教官である先生は、よく「研究とは何か自分の納得のいかないものや不条理なものに対する怒りだぁ、怒りがなければ研究じゃない」と言っていました。「問題点」と書くと、なんかオオゲサですが、「自分の納得のいかないもの」とか「不条理なもの」と書くと、そうでもないかもしれません。いや、そんなことはないか。

 まぁ、そうはいっても、「開発」って奴は、やってみるとわかるのですが、最初思ってもみなかったアイデアが途中で浮かんだりすることが結構多いのですね。だから、作り終わったときには、最初の青写真と全然ちがったものができてきたりして、ハッキリ言って焦ります。開発した本人が、開発物を見て、「なんじゃこらー」という具合に、松田優作のように叫んでしまうことは、そう珍しいことではありません。ここのところは、開発をしたことのない人は、批判的に思うかもしれませんね。「また、適当につくりやがって」という具合に。でも、もしそう思うなら、実際にやってみてください。開発とは、できてくる開発物と開発者のあいだの対話的なプロセスであることがわかります。

 さて、開発ですが、何もソフトウェアだけに限られることではありませんね。たとえば、番組をつくることも開発ですし、子どもにかけるコトバを考えることも開発だと僕は思っています。コンセプト、つまりアイデアをつくることも開発ですね。要するに、今までとは違った何かアタラシイことを「つくりだすこと」が開発と思っていただいて、結構だと思います。

 で、「開発」が終わると、次は「実践」です。要するに「やってもうたがな」ってことですね。自分が「実践者」ではない場合、すなわち、誰か他の人に「頼み込んで」やってもらう場合には、「やってもらったがな」ですね。
 「実践」とは、ソフトウェアが開発物の場合は、実際にユーザーに使ってもらうこと、番組が開発物の場合は、実際にその番組が放映されることですね。やってもうたがなーっていう感じです。

 さて、いよいよ実践が終わると、最後は「評価」です。いよいよ今日の話の核心に触れてきました。そして、結構、ここが重要な点であり、問題を含んでいるところです。先ほど述べましたとおり、「開発 - 実践 - 評価」というプロセス自体を疑っている方もいらっしゃるようなので、前者2つの「開発」と「実践」もいろいろ問題があると思うのですが、何が問題かっていったら、この「評価」が一番問題を抱えていると僕は思っています。どういう問題かっていうと、ちょっと以下に書いてみました。

 1. そもそも評価が軽視されてる
 2. 評価」されても、「評価の対象」が問題である
 3. 評価」において、どのような記述を行えばよいか、が問題である
 4. 評価をしても、それをフィードバックするところに問題がある

 なんか、こうして書き出すと「おいおい、全部じゃん」と思わずツッコミたくなりますが、以下、それをもう少し具体的に書いてみましょう。

 1の「評価」が軽視されているっていうのは、そのまんまです。「開発」や「実践」に比べて、「評価」っていうのは、ナンカ面倒くさいし、オドロオドロしいんですね。何かをやって「これから起こる出来事に夢をかけること」のできる「開発」や「実践」はいいんですが、「評価」には「夢」がありません、すべては「現実」です。だから、自戒をこめて言っていますが、結構、開き直っちゃうことが多い。

 でも、よーく見てみると、この「開き直り」にはパターンがあります。開き直りの第一のパターンは、「時間がないんだよ、悪いの?」って言う奴ですね。「悪いの?」って言われたら、こちらの方もギョッとしてしまいます。このあいだある大学の先生から、「中原君の悪いの?っていうセリフが好きです」とお褒め(?)のコトバをあずかり、僕、最近、非常に調子にのっています。ウヒッ。

 開き直りの第二のパターンは、「この試みはそもそも評価できない、悪いの?」って奴です。評価できない、つまり「あとから振り返ることのできないアンタだけしかわからないワケノワカランことをするなってーの」、と思わずツッコミたくなりますが、かくいう僕も結構この開き直りに甘んずることが時にあります。本当にごめんなさい。修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ。

 まぁ、とにかく評価というのは、こうした理由で前者2つに比べて、非常に軽視されやすく、無視されちゃうことが多いのですね。

 第二の問題点は、「評価」の対象の問題です。つまり、簡単にいうと、「何を評価するのか?」っていう問題があるんです。具体的な例をあげて説明しましょう。

 たとえば、今、ある教室に、ある新しい機能をもつソフトウェアを導入して、子どもたちにそれを使ってもらいました。つまり、学習してもらった。そのときにですね、評価の対象としては、いろんな可能性が考えられます。たとえば、子どもたちの知識が増えたかどうかってことを「対象」におく場合とか、子どもたちの教室での「振る舞い」を「対象」におく場合とか、子どもたちの「学習に対する動機」を「対象」におく場合だとか、まぁ、あるとあらゆる可能性が考えられます。

 話はそれだけじゃすみません。ここに第三の問題点が出現してきます。第三の問題点は、「評価」において、どのような記述を行うかってことですね。

 あるソフトウェアに組み込まれた「新しい機能」と子どもたちの「知識」との相関関係を評価するのか、はたまた「新しい機能」がどの程度子どもたちの学習に効果があるかってことはほっておいて、そのソフトウェアを含んだものとしての「場」の変化を記述するのか、そういう風に、評価においてどのような「記述」を行うかってことには依然問題が残るのです。

 これは、よく「Effect of 開発物」「Effect with 開発物」という風に表現される問題ですね。「Effect of 開発物」というのは、前者のように、純粋に「開発物そのものの効果」をしらべるような評価のヤリカタを言います。「Effect with 開発物」というのは、開発物の効果の因果関係はタナにおいておいて、その開発物が実際の「現場」でどのように使われ、利用されていくか、その開発物こみの「場」を評価することを言います。

 この第三の問題点に関する僕のスタンスを示しておくと、少なくとも僕に関しては、「Effect With 開発物」を評価すべきだと思っています。ある人は、この「Effect with 開発物」としての評価を「状況に埋め込まれた評価(Situated Evaluation)」と呼んでおります。コレに関しては、「語りを誘発する学習環境のエスノグラフィー」という拙稿で詳しく書いておりますので、これ以上、ここで語ることは避けます。

 第四の問題というのは、評価した結果、その結果をどうもう一度「開発」や「実践」にいかすことができんのかいな?っていう問題です。つまり、評価が終わったあとで、「で、何なの?(So, What?)」と問われていると言って差し支えないと思います。

 せっかく評価をしたのだから、それを何か「現場の営み」に活かすことはできないんでしょうか。これについては、実は一番重要でありながら、ものすごくムズカシイってことがわかると思います。

 たとえば、評価の結果、因子分析をしたりして、結果をあらわす「表」ができるとしますよね。別に因子分析じゃなくっても何でもいいです。何らかの分析をして、「表」や「結論チックな命題」がでてくるとします。で、研究者は当然実践をした人に、この表や命題を返そうとするのですが、「それでフィードバックしたことになるのか?」ってことには、依然疑問が残っちゃいませんか。まぁ、100歩ゆずって、一応、それで評価したことにはなるかもしれませんが、「だから、何だってーの(So What?)」っていう問いは、依然残ると思うんです。このあたりは、かなりというか、ほとんど「反省モード」でしゃべっています。僕も非常に悩んでおり、いつも自己嫌悪に陥ることしばしなのです。

 さて、以上、評価について見てきました。評価っていうのはたくさん問題を抱えているってことがわかりました。もちろん、ここにはあげませんでしたが、たとえば「評価する主体の問題」や「評価基準の問題」や「評価の信頼性の問題」など、まだまだ問題はあるのです。これを全部書いてしまうと、僕がいよいよ「ブルー」になって、「ドブ」に足をつっこんで抜けないっていう感じになってしまうので、ここらへんでやめておきます。でも、問題は本当に泣きたいほどあります。

 でも、それにもかかわらず、そんなに問題があるのにもかかわらず、敢えて僕は思います。それでも評価は必要だ!と思っちゃうのですね。

 こないだある方からメールをいただいて、恋愛のメタファはわかりやすいとお褒め(?)のお言葉を頂いたので、調子にのって、また恋愛メタファで書きますが、「評価のない恋愛」、つまり、「学習しない恋愛」って怖くないですか。誰しも恋愛の経験などはあって、その中には、思い出したくない想い出も多々あるのでしょうが、それにしても、評価がなければ学習はありません。学習がなければ、また同じ事を繰り返します。あぁー言ってて自分で心が痛くなってきたよ、全く

 あと、評価がなければ、開発されたモノや、各種の試みが、本当のところは、どういう社会的な意義をもっていたのか、そのあたりが不明確になってきます。そういう社会的な意義が不明確になるってことは、非常に危険ですね。開発されたモノや各種の試みが、宗教チックになってしまうことを意味します。

 まぁ、そんなこんなで、僕は「それでも評価は必要だ」と思っています。問題は多々あると思うのですが、それでも必要だったら、必要なんだってーの


NAKAHARA, Jun
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