Essay From Lab : Fragment 2. 知識嫌いのPBL

2000/04/03 Update

 先日はデータベースのことについて、またもや言いたい放題を言ってしまいました。結論からいうと、データベースを学習に活かそうとするならば、情報をタメることも重要だけど、それだけで終わってしまっては「コエダメデータベース」になっちゃうんだよ、ということが言いたかったのですね。もうひとつの結論としては、データベースへのアクセスが簡単になったとしても、それは直接学習の深化にはむすびつかないんだよ、ということでした。相変わらず言いたい放題です。

 さて、今日はPBLっていうものについて考えてみたいと思います。大阪人ならば、ここで必ずボケとツッコミをかましますね。

大阪人B 「やっぱり、これからの教育はPBLやんなぁ」
大阪人A 「PBL? あーあ、あの毎年甲子園に行ってる高校ね・・・」
大阪人B 「そうそう、あの宗教団体の高校やんなぁ」
大阪人A 「なんでやねん! それはPLやろ!」

 この場合、ネタをふった大阪人Bに対して、大阪人Aは「小ボケ」をかまし、大阪人Bは「さらに小ボケ」で、最後に大阪人Aが「ツッコミ」という感じで、綺麗なボケツッコミです。

 閑話休題。

 さて、PBLなんですが、これは「Project-Based Learning」の略です。日本語でいうと、「プロジェクトに基づく学習」だとか、「プロジェクト学習」だとか言われます。まぁ、日本語でどういうかなんてハッキリ言って、どうでもいいことですね。で、このPBLですが、近年の教育現場において、結構注目されているような学習のケイタイであったりします。

 プロジェクト学習では、一般的に「教科」とかいう枠組みにとらわれず学習が進行します。学習が進行する単位は、「教科」というわけではなくて、「プロジェクト」なのです。たとえば、農薬問題ならば、この問題をとりあげるプロジェクトが学習者のあいだでもちあがり、それぞれの専門性というか興味関心をもとに、いろいろ調べたり、仮説をたてたりするわけですね。そうして最後に、その成果をプロジェクトメンバー全員で共有するなんてことがよく行われたりします。だから、チマタでは「総合的な学習の時間」っていうのが大流行ですが、「総合的な学習の時間」は、このPBLっぽいんですね。ただ、イコールというわけではありません。PBLは教育学というか教育関連の心理学なんかで取り上げられた概念であるから、世界で通用する言葉です。海外の文献を読んでいると、よくこのPBLがでてきます。そういえば、昔、僕がイタク感動した論文があるのですが、その論文は、「PBLのような授業を現場の教師がやっていくときには、おそらく葛藤や困惑がおこるであろうから、そういう教師を支援するツールやネットワークが必要だ! だからそういうのを作っちゃいました!」なんていう論文でした。PBLを主張するだけでなく、PBLに対する現場の先生方の心理的不安や、移行にかかわる問題のところまで考えて、実際にモノヅクリをしていっちゃったという点において、ものすごくオモシロイなぁと思ったものです。
 さて、話をもとに戻しますと、一方、「総合的な学習の時間」は日本の教育行政が決めた概念ですし、コトバでありますので、日本だけの概念です。もちろん、先進国と言われる国々で似たような実践がなされている場合がありますが、「総合的な学習の時間」はそれとイコールというわけではないので、これは日本独自ということになります。

 さて、PBLについて少し説明をしてきましたが、このPBLについて、どうも気になることが僕にはあるんです。というのは、どうも「PBLでは知識を蓄積することは避けなければならない」と思われていることです。つまり、プロジェクトを組んで確かに、ある問題に対して深く探求はするのですが、その探求が終わったあとに、得た知識をまとめるだとか、振り返って吟味して、自分のものにするだとかいう作業が行われないPBLが非常に多いように思うのです

 これは「知識に対する毛嫌い」と言ってもいいかもしれません。確かに、一部ですが、そういう風潮があるように思います。僕が思うに、これは、たぶん総合的な学習の時間やPBLが、「知識偏重の教育」の是正策として教育政策に盛り込まれた、という背景があるからのように思うのですね。確かに、「知識つめこみがたの学習」というのは、一時期にモノスゴク流行したし、それが反省されることになったのは最もだと思うのですが、そうした背景の部分を拡張しすぎて、どうも「知識」自体、「知識」を獲得する作業そのものから逃げようとしているような気がするのです。

 PBLは教科の枠組みや時間の枠組みを超えて、プロジェクトを組んで、学習者たちが協同で知的探求を行うという点で、非常に魅力的な学習のケイタイであると思いますし、これから、そういう実践がどんどん増えてはいくのでしょう。ただし、PBLそのものが知識や、知識を自分のものにするだとか、そういうことを否定しているわけではない、と僕は思います


NAKAHARA, Jun
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