Essay From Lab : Fragment 2. データベースはコエダメじゃない!

2000/04/03 Update

テクノロジーと教育っていうお題のあとは、いきなりデータベースかい!

 っていうつっこみが聞こえてきそうですが、この文章を体系立てて書いていくつもりはないし、ていうか能力不足で僕にはできないので、許してください。前のFragment1では、確か「今までの学習や教育のありかたを変革するような道具としてテクノロジーを使いたいなぁ」って僕は考えていますよっていう話をしました。今日はデータベースのお話です。

 とはいっても、僕、それほどデータベースに詳しいわけではないんです。修士論文の開発でもデータベースを若干使いましたし、それを開発したりしたわけなんですが、それほどわかっているわけではないんですね。体系的な教育は全くうけていません。すべて自習です。でも、まずコンピュータとかネットワークとかの教育利用って言われるときに、結構引き合いにだされる可能性が高いのは、このデータベースってやつでしょう。これはホントウです。だから、ちょっとわかんないけれど、このデータベースってやつをとりあえずは論じてみることにしましょう。

 みなさん知ってのとおり、データベースっていうのは、要するに「分類バコ」です。今日、実は自分のマンションの部屋に収納スペースがないことに悩んで、「生活雑貨」という雑誌を買ったのですが、この雑誌に「パンツ」を収納する小箱の集合みたいな入れ物が売っていました。まぁ、これと同じだっていうとデータベース屋さんに殺されそうですが、いいもんねー。まぁ、ここではパンツ小箱みたいなものと思ってもらってかまいません。最初に言っておくけど、「パンティ小箱」じゃないです。「パンティ」というのは、どうも死語らしいです。最近、全然聞きません

 でも、データベースっていうのは、単なる「パンツ小箱」じゃないんですね。小箱にはどうも「タグ」らしきものがついていて、自由に中にはいっているパンツの検索とか比較とかできるんです。はー?

今年一年以内に買ったオニューの勝負下着をだしてねー

 っていうと、がーっと小箱にはいっているパンツを検索して、「該当の勝負パンツはこれとこれです」なんて言ってくれる、言うたら魔法のハコだよね。ユーザーの条件に従って、中にはいっている情報をガーっと見渡して、ユーザーに「こんなんありますけど」と教えてくれるんです、そう思っていてください。「オニュー」というコトバも今や死語ですね、未だに使っているのは、うちのオカンくらいでしょう。まぁ、それはいいとしてデータベースにはリレーショナルとか、SQLとかそういう難しい概念もありますが、それはこのさいほっておきましょう。

で、この魔法の小箱、なんで教育なの?

 という声が聞こえてきそうですが、これがよく使われるんですね。たとえば、学習者が環境問題を調べようと思って、自分たちで調べてきたデータをいろいろこのハコに入れて置いて、あとでデータ同士を比較したり検索したりするだとかでしょうか。データを入力しているときは気づかなくても、あとで検索して比較なんかしてみると、「隠れた構造」や「隠れた事実」がでてくる、なんてこと、よく起こります。そういう「データの後ろに隠れた事実」を見つけるために、データベースっていうのは大変重宝しますね。

 先生にだって、データベースの使い道は多いと思います。たとえば、教材データベースだとか、成績管理データベースだとか、変わりどころでは学習者反応データベースというのもあります。要するに、ある問題に対して学習者がおかしやすいミス、つまりバグという奴をデータベースにいれておいて、その反応を検索した上で授業をつくると、いい授業が作れますよーというふれこみのデータベースです。

 まぁ、とにかくデータベースの使い道は広いです。言うたら、今みなさんが読んでいらっしゃるWebというシカケだって、データベースの一種なので、その用途は無限に広がると言ってヨイと思います。

 でも、散々ここまでデータベースを誉めてきたけれど、でも、どうもデータベースが現在「教育的」に使われているかっていうと、それは疑わしいなぁと思ってしまったりします。僕の管見に関する限り、データベースが教育的に使われない理由は、どうもデータベースにまつわるフタツの思いこみのせいのように思います。つまり、この思いこみがどうもデータベースを「教育的」に使えないようにしているのではないかなぁと思うのです。以下、その思いこみをあげますと、こんなものですね。

1.学習者がデータベースにデータを入力することで、学習がより深化するハズであるという思いこみ

2.学習者がデータベースにアクセスすることがより容易になることで、学習は深化するハズであるとする思いこみ

 第一の思いこみは簡単なことです。データベースにたとえば気象のデータをいれました、それだけで満足しちゃって、学習がおこっているとしてしまうんですね。どこぞの心理学者が述べていることですが、人間は「解釈を行うときに多くを学ぶ」という特徴をもっているようです。もし、人間が「解釈を行うときに多くを学ぶ」のなら、データベースで多くを学べるのは、データを入力するときよりも、むしろ多くのデータの中から目的のデータを検索し、比較し、仮説をたて、検証するようなときでしょう。しかし、時間の制約もありますし、データベースのインタフェース自身が、それほど簡単でないために、どうしてもデータベースを「じゃぶじゃぶ」使って、より深い学習を行う、というよりは、むしろデータベースにデータを入れてみることで終わっているような学習が結構多いような気がするんですね。どうも、そのあたりが気になります。

 第二の思いこみはちょっと厄介ですね。コンピュータとコンピュータが相互にネットワークで接続されるようになるとき、こうした思いこみがおこります。要するに、ネットワークを介してデータベースにより簡単にアクセスができるようになれば、そのぶん学習者は時間的にも心理的にも余裕ができるハズであるから、彼らの学習はより深いモノになるハズだってふうに勝手に思ってしまうっていうことです。でも、それはどうも疑わしいですね。データベースへのアクセシビリティ(アクセスの容易さ)の向上とデータベースを使った学習の成果のあいだには、直接の因果関係はありません。フタツは独立の事象です。でも、そこに我々は因果をつけてしまいがちです。僕にはどうもそのあたりが気になったりします。

 確かにデータベースは魔法のコバコです。現代は情報化社会っていうナンカスゴイ時代らしいですが、その時代の成立にも維持にも魔法のコバコは絶対に不可欠です。みなさんが利用しているコンビニやスーパーや銀行なんかは、いまやデータベースなしでは営業できないでしょうね。しかし、その「教育的な使い方」に関しては、今一度考えてみる必要があるようですね。データをためておくだけでもだめですし、データをためておくことが容易になったとしても、それは直接は学習の深化や改善には結びつかない、ということを考えておく必要があるように思います。

データベースはコエダメなんかじゃない!
 


NAKAHARA, Jun
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