Essay From Lab : Fragment1. テクノロジーと教育

2000/04/02 Update

 このホームページが公開されてはや3年、僕もいよいよドクターコースに進学にしました。先日、ある人のメールにこんなことが書いてありました。

「中原君の大学時代は、小学校より長いんだね」

 そうなんですよね。僕が教養学部に入学したのが今から約7年前になるわけですから、小学校をこえてしまったことになります。小学校は6年ですから、一年オーバーということになります。谷啓だったら、この事実に気づいた瞬間に「ガチョーン」と言うのでしょうが、あいにく僕はそのようなキャラではないのでやめときます。

 先日、これは別の方のメールですが、こんなメールをいただきました。最近、一週間に一度くらいいろんな方々からメールをもらいます。嬉しい限りですね。

「最近、中原さんの書いている日記なんだけど、だんだん研究から遠ざかっていますね。できれば、情報教育とかコンピュータと教育のこととかのこととか、ネタ、ないんですか?」

 これこそガチョーンです。
 まさにおっしゃるとおり、わたしが悪うございました、という感じなのですが、まぁ、せっかく続いている日記なので、それはそれとしてとっておいて、それとは別に、情報教育とかコンピュータと教育のこととかを、「会話口調」で「簡単」に語る場所があってもいいかなぁと思って、以前から書いている「Essay」のところで、それを実現することにしました。

 名付けてEssay from Lab. about ICT!

 単なるエッセイじゃないぞ、ラボからのエッセイ!っちゅうことで、情報教育とかのことが題材となるエッセイというニュアンスを出してみました。ちょっと「遠い」かなぁ、つながりが。ちなみに、ICTっていうのは、「Information Communication Technology」の略で、「情報教育」ってことですね。
 それにしても、我ながらこのネーミングの工夫のなさには、腰がヘロヘロになった上に鼻血がでてしまいそうになりますが、今日からそんなページをつくっていきたいなぁと思っています。でも、最初からあんまり「カタチ」にこだわると大変ですよね。だから、よく見てください。上のタイトルのところに「Fragment(切片:きれはし)」と書いてあります。今回は、テクノロジーと教育、ということについて語りますが、はっきり言って、なんの脈絡もヘッタクリもありません。次回からは、たとえば「データベース」とか「メール」とか「テレビ会議」とか、そういうことについても語っていきますが、それも単なる「きれはし」です。たぶん、集めてジグソーパズルしてみても、「はっきりとした像」をむすぶことはないと思うんです。完成しないジグソーパズルってイヤですねぇ、はっきり言って「ホラー」です。ちなみに、僕はパズルって苦手なんですよね、なんかパズルをすると、尿意が襲ってくるんですよね、カクレンボしているときと同じように。

 さて、でもこの「完成しないジグソーパズル」っていうのがポイントだったりするんですね。僕の毎日ヘロヘロと考えていることのひとつに、「ゾウリムシレヴェルの研究者として僕のできることって何だろう?」っていうのがあるのですが、僕が語ることのできることっていうのは、教育の現場に向けて、ハッキリとした「答え」をだすことでもなければ、「処方箋」をつくることでもないと思っています。僕の語ることのできること、もっと簡単にいうんだったら、研究する僕がしなければならないことは、教育現場で日々実践をなさっている方々が、「ハッキリとした自分の答えをだすホンのお手伝い」をすることではないかなぁと思うのです。つまり、現場の人々がハッキリとした「自分なりの答え」をだすための素材を提供すること、そういうことができればなぁと思っています。逆に言えば、それさえ心許ないのですが、そういう覚悟でこれから研究をやっていきたいし、努力していきたいなぁと思うのです。

 はい、前置きが長くなりました。前置きが長いのは結婚式のときの新郎の上司だけで十分です。オマエ、長いってーの。早速、テクノロジーと教育について考えてみましょう。

 さて、ようやく考えるときになって、またもや大変申し訳ないのですが、「さて、テクノロジー」って何でしょうね。日本語にすれば「技術」ですよね。「技術」って言われてもねぇ、僕は「技術」苦手だったしなぁ。僕、中学校の技術の時間に「オルゴール」をつくって、ある方にプレゼントしたんですが、その人が「どうもありがとう」って言って、ネジを巻いた瞬間に、オルゴールの中で「鈍い音」がして「こっぱミジンコ」になってしまった思い出があります。信じられん。

 閑話休題。

 テクノロジーが「技術」であることはまぁいいとしましょう。で、僕が「テクノロジー」というコトバを使う際なんですが、これからその意味は「人間の何らかの目的を達成するためにつくりだし利用しているあらゆるモノ」として使いたいと思います。だから、黒板だってテクノロジー、チョークだって、教壇だって、僕は立派なテクノロジーだと思っています。それじゃあ、学校にはテクノロジーだらけじゃないかって言う人も多いと思うのですが、まさにおっしゃるとおり! 教育の現場っていうのはもともとテクノロジーだらけなんです。でも、一般にはどうもそう思われていないように思います。なんか、こんなフレーズを聴いたことってないですか?

 「テクノロジーが学校に導入されようとしている現在・・・・」

 こういうのを「枕詞」なんて言うのですが、この枕詞は僕の認識にかんするかぎり、ちょっと違っていて、テクノロジーはそもそも教育現場にあったのですよ。ここが大切なところだと思うのですね。吉村サクジなら、「ここポイント!」と叫んでしまいそうな雰囲気です。つまり、第一に言いたいことは、教育という営みはテクノロジーぬきではそもそも語り得ないほど、テクノロジーってる場所なんです。だから、教育とテクノロジーはよいパートナーシップを結んでいかなければならないそんな風に思いますテクノロジーとしての教育、という視点はどうも最近、教育学でも注目されているみたいですね。

 ところで、先ほど「テクノロジー」は一般にはどうも誤解されていると言いました。言いたい放題ですが、僕のホームページなので許してください。じゃあ、テクノロジーは一般にどう思われているのでしょうか。そう、ここでようやく「コンピュータ」とか「インターネット」とかの話がでてくるのです。近年、モノスゴクこれらのモノたちが発展しています。このページに来ていただいているみなさんだから、そんなことはイマサラ言うな!と言いたくなるはずですよね。でも、我々はどうもついつい「テクノロジー」というコトバの意味を「コンピュータ」とか「インターネット」とかに、限定してしまいがちです。まぁ、限定してしまってもいいっちゃいいんだけど、僕はあんまり好きではありません。

 さて、これで「テクノロジー」一般のお話は終わり。これからはようやく話のマナイタの上にのっかってきた「コンピュータ」とか「インターネット」とかいうブッタイの話にはいることにしましょう。もちろん、「コンピュータ」とかいっても、難しい話はここではしません。
 「コンピュータ」とか「インターネット」は「テクノロジー」ではなく、「テクノロジーのひとつ」であることは先に述べました。でも、なんかこれらのブッタイたちは、どうも今までの「テクノロジー」とはちょっと違いそうな気もしてきます。してくるでしょ、してくるんだったら、してくるんだ。

 Yahooのカブが上がったのは、インターネットとかコンピュータとかが関係しているからだ、これらのブツには何か特別なシカケがあるに違いない!

 そう思われる方もいらっしゃるかと思います。僕もYahooのカブ持っていれば、今頃北海道に帰って、田中ヨシタケのように牧場を買って、牛の「チチシボリ」をしているでしょう。

 さて、「コンピュータ」とか「インターネット」とかいうものですが、確かに教育現場にこれまで導入された、たとえば黒板とかOHPとか、教壇とか、そういうテクノロジーとはあるいくつかの点ににおいて、一線を画するもののように僕は思います。しかし、それが何であるかはここでは述べません。あまり先を急がず、これからゆっくりと考えていきたいと思います。でも、ひとつだけ言っちゃうと、このコンピュータとかインターネットが他のテクノロジーとは違っている特徴、この特徴こそがまさに、これからの「コンピュータと教育」を支えていくプリンシプルになっちゃうということです。もし、コンピュータとかインターネットなんかのテクノロジーが、教育現場にとってアタラシイテクノロジーのひとつだと言えるのなら、そのアタラシイテクノロジーを、アタラシイ学習のスタイルや教室の雰囲気をつくるために使っていきたいなぁと僕は思っているし、それが妥当なことではないかなぁと思うのです。かつてのテクノロジーにはなかった特徴をもっているこれらのブッタイによって、何か新しくて学習者がワクワクしそうなことができるんじゃないかなぁと思っているわけです。

 たとえば、レズニックという心理学者は、学校の外と学校の中における2つの学習を比較して、こんなことを言っています。

 学校の中での学習っていうのは、どうしてこうも学校の外での学習の姿と違ってるんだ、ケシカラン。だいたい、学校では個人の能力をアタマの中の知識の量とか形式的な推論の正確さにしちゃいがちだけど、学校の外じゃ、そうじゃないはずだ、でもみんなそれなりに知的なことをやっているんだ。ほかにも学校の外では、いろんな道具をつかって、みんな生きているのに、学校の中では道具をつかって賢く振る舞うことは、禁止されちゃってる。ケシカラン、ケシカラン。

 レズニックが「ケシカラン」と言ったのかは、まぁ、ここではいいとして、この指摘はオモシロイと思います。レズニックは、学校の中にはいってしまうと、学校の外とは違ったタテマエで学習が進行すること、そしてそうした学校の中での学習は、どこかホンライの学校の外における学習とは違っていると言いたかったわけですね。

 話をもとに戻しますと、こういう学校の中でのこうした「トクシュな学習」をアタラシイものにすること、いや、ホンライの学習の姿にすること、そういうことにテクノロジーを利用できないかなぁと僕は思ってしまったりするのです。

 もちろん、これはハッキリ言って、どんなに頑張っても僕の「カチ」でしかありません。あくまで、そういう風に使えたら嬉しいなぁと思っている、ということです。でも、僕がそう思っていると言うことは、これから僕がいろいろ書いていくことになる各Fragmentでも、同じような立場でモノを言うことになるということです。そんな感じで、これからEssay from Lab.を書いていきたいなぁと思っています。


NAKAHARA, Jun
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