The Long & Winding Road - 2001/09


2001/09/01 コーヒーメーカー

 山内さん夫妻が我が家にご訪問です。すてきなコーヒーメーカーとケーキをいただきました。いただいたコーヒーメーカーでコーヒーをわかし、しばし、お茶の時間を堪能しました。お忙しいところ、本当にありがとうございました。

 その後、美和さんの高校時代のお友達と東京プリンスのビアガーデンで飲みました。とても愉快だった。いやー、それにしても、飲み過ぎだって、食べ過ぎだって。

ビアガーデンへ
 

  

 ビアガーデンです。ビアガーデンって、現場だよなー。行くたびに、「今回だけは食い過ぎ、飲み過ぎに注意しよう」と思っても、絶対に無理だもん。
  

 最近、ちょっと肥え方が等加速度直線運動化してるので、肉は食べないで置こう、ビールはほどほどにしようと思っていたんだけど、全く無理ね、全然無理さ。現場では現場の論理がはたらくので、これは致し方ない。せめて、等速直線運動にしようや。

 2次会はカラオケで、望郷じょんがら。ここでも、飲み過ぎだって、アンタ歌いすぎ。帰りは午前2時30分。

 今週末は久しぶりのお休みでした。嬉しいねー、お休みは。楽しいねー、週末は。来週は、学会、講演等があるため、なかなか忙しいんだねー。出張続きだ。プレゼン2つもあるのに、大丈夫かねー。


2001/09/02 千と千尋の神隠し

 お休み2日目。日比谷に「千と千尋の神隠し」を見に行きました。

 http://www.sentochihiro.com/

 神様やお化けたちが疲れた体を癒しにやってくる温泉町に、10歳の少女、千尋がなぜだか知らないけど、迷い込む。人間を拒絶するこの町で彼女は自分の名前を奪われ、新たに“千”という名を与えられ、そこで働くことになります。ヘンチクリンな神々との出会い。他者の声を腹話してしか話すことのできない神カオナシなんかは、気持ち悪いんだけど、どこか寂しげで好感がもてます。笑いあり、恋いらしきものあり。どこかで見たことのあるような「日本が日本だった頃」を舞台にしたファンタジーです。

 この映画、随所に思想が埋め込まれています。どちらかというと、ひとつの主題を追っかけるというよりは、ファンタジーの中に、いろんなエキスがちりばめられているっていう感じ。そこのあたりは、前作の「もののけ姫」の作り込みにとてもにています。

 たとえば「名前をもつということ」の意味、「働く」ということの意味。そういうことを別に考えなくてもいいんだけど、つい考えちゃうねー。

 あとね、主題歌が泣ける。あんまりよかったので、CD買いました。以下、歌詞を引用します。

 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも心踊る 夢を見たい

 悲しみは 数えきれないけれど
 その向こうできっと あなたに会える

 繰り返すあやまちの そのたびひとは
 ただ青い空の 青さを知る
 果てしなく 道は続いて見えるけれど
 この両手は 光を抱ける

 さよならのときの 静かな胸
 ゼロになるからだが 耳をすませる

 生きている不思議 死んでいく不思議
 花も風も街も みんなおなじ

 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも何度でも 夢を描こう

 悲しみの数を 言い尽くすより
 同じくちびるで そっとうたおう

 閉じていく思い出の そのなかにいつも
 忘れたくない ささやきを聞く
 こなごなに砕かれた 鏡の上にも
 新しい景色が 映される

 はじまりの朝 静かな窓
 ゼロになるからだ 充たされてゆけ

 海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに
 わたしのなかに 見つけられたから

いつも何度でも
作詞/覚和歌子 作曲・歌/木村 弓

 いやー、渋い。渋すぎる。「ただ青い空の 青さを知る」「生きている不思議 死んでいく不思議」「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」とは、普通はかけません。

 もう一度見たいねー。たぶんもう一度見たら、また新たな発見がありそうな映画でした。


2001/09/05 サラリーマン川柳

 今日は、あるプレゼンの準備をするのに、最近入手したビデオを見ていた。その中にサラリーマン川柳がいくつか紹介されていて僕の笑いのツボをついた。さっそく、Webを見たら、第一生命のページにサラリーマン川柳を発見。もしかしたら、みんな知っているのかもしれないんだけど、その中から、気に入ったものを引用してみた。

 はいできます 上司は言うが やるのオレ

 早くやれ そういうことは 早く言え

 会議中 わからぬ奴ほど よく吠える

 コストダウン 叫ぶあんたが コスト高

 会議中 うなづく者ほど 理解せず

 上役の 命令ファジーで 僕ビジー

 頑張れよ 無理をするなよ 休むなよ

 帰りぎわ とらなきゃよかった この電話

 「何食べたい?」 聞くな作った ことがない

 川柳と 言って笑うな 本音だぞ

(株)第一生命 サラリーマン川柳のページより引用

 笑いなしでは読めないね、こりゃ。それにしても、不満やグチをこういうウィットのきいたコトバにまとめるっていうのは、やけ酒よりも健康的でいいかも。


2001/09/06 西森さん、NIMEの研究支援員になる

 大阪大学大学院の西森さんが、NIMEの研究支援員に着任した。これから半年間、NIMEに勤務することになる。僕としては、これほど嬉しいことはない。めでたい、めでたい。

 昨日は、西森さんと永岡先生と田口さんで近くの焼き肉屋にいった。歓迎会ということで、永岡先生がおごってくれた。ありがとうございました。帰りはスタバで田口さん、西森さん、中原でコーヒーを飲んだ。

 西森さんは、昨日は初日だったから大変疲れたと思う。本当にお疲れさまでした。


2001/09/07 教育心理学会

 6日は朝から西森さんに論文添削をしてもらった。ありがたい、ありがたい。おかげで論文を投稿できそうだ。

 結局、論文添削が終わったのは、午後4時。それから、お礼に西森さんと二人でパスタ屋へ。その後、夕方頃、僕は教育心理学会の自主シンポジウムにでるために、一路名古屋へ。

 名古屋は、ANAホテルに泊まった。ちょっとくらい贅沢してみることにした。でも、贅沢は嘘だな、旅の窓口のバーゲン料金だったのです。半額だった。

 ここで、嬉しい出来事。先日から持ち始めたANAカードWIDEがはじめて威力を発揮した。ウェルカムドリンクと朝食が無料でついてきたんだね。高い会費を回収しなければならないので、一人でバーに言って、ウェルカムドリンクを飲む。左手には、明日のプレゼンの原稿、右手には赤ペン。ジントニックを飲みながら、ガシガシと赤をいれる。たぶん、あのホテルのバーで、赤ペン先生ライクな添削をしたことがあるのは僕だけだろう。でも、仕方なかったのだ、時間がなかったから。雰囲気ぶち壊し、隣のカップル、ざまー見ろ。

 教育心理学会の自主シンポジウムは、三宅なほみ先生@中京大学と村山先生@静岡大学とで「学びの科学の現在」というお題だった。僕は、今取り組んでいる学習システムの開発の中から、3つを紹介し、CSCLシステムのデザインプリンシパルみたいなものをチョコットだけ述べた。

 シンポジウムは、とってもオモシロかったし、タメになった。特に「なぜ人々の協調なのか?」という会場からの質問に対する三宅先生の答えは、スゴイなーと思った。普通の人だったら、「だって、インターネット流行ってるもーん」だとか、「だって、コミュニケーション能力の時代だもーん」と「しょーもないこと」を言ってしまいそうになるけれど、キチンと学習研究の知見を引いて、説明なさっていた。

 シンポジウム終了後は、三宅先生夫妻、村山先生、杉本さん@千葉工業大学、益川さん、湯浅さんと一緒にランチへ。帰りは、杉本さんと一緒に新幹線で帰京。

 明日は、ソフトハウスで打ち合わせ。その後、原稿提出。日曜日・月曜日は広島。火曜日には、大阪で講演ライクな寄り合いに出席。

 そして人生は続く...


2001/09/09 ウソでもいいから褒めて:禁煙一日目

 日曜日の朝、起床と同時に、ひとつの思いが心をよぎった。

 そろそろ禁煙せななー

 ドラスティックな決断でも何でもなく、ふと思っただけだった。

 これまで今年に入ってから、2度目の禁煙になるんだけど、1週間以上我慢はできなかった。そのたびに、多くの人は「我慢が足らぬ」と言った。僕に我慢が足らぬのは事実だが、それ以上に、僕は「ニコチン依存症」という病気なのだ。

 そろそろ、禁煙せなー

 最近、そう思うことが多くなった。最近の禁煙ブームから禁煙を決意したのでは断じてない。なぜか体調が何だか優れないことが多い。生活のリズムが崩れているのだろうか。夜も必ず1度はおきてしまう。喉の痛さもずっと続いてる。タバコのせいではないような気もするが、それも一因なのではないか、と邪推する。

 ホンマ、やめなアカンな

 朝一番のタバコに火をつけて、ぼんやりとそう思い、その一本を最後の一本にすることを決めた。

 今日から火曜日まで出張だ。広島行きの飛行機に乗るため、浜松町へ。浜松町の本屋で禁煙セラピーの書籍を買い、機内で読みふけった。タバコとライターを駅のゴミ箱に思い切って捨てた。ロッテのブラックガムを4個買って、すいたくなったときに備えた。9月から市販されることになったニコチンガムを最悪の時にそなえて、あとで買いに行こう。ホテルは、No-smokingの部屋にしてもらった。

 今、禁煙開始から少なくとも6時間以上たっている。ときどき禁断症状らしきものがくる。そのたびに、ガムをたべて我慢。禁煙セラピーの本によると、この禁断症状は、2日から3日後がピークで、一週間後にはなくなるという。たぶん、明日、明後日がヤマなんだろう。ていうか、今だって結構スゴイぞ、カラダが欲っしているぞ。ウソでもいいから、「今がピーク」と言ってくれ!

 前回の禁煙時は、飲み会の席でタバコを勧められて、あえなく断念した。禁煙セラピー本によると、飲み会は厳禁だそうだ。しばらく行かない、行きたくない。

 あと、本によると、禁煙を支援してくれる人がいてくれると、それは達成しやすいらしい。禁断症状に苦しみながら、ガムをかんでる僕を見たら、ウソでもいいから、褒めてね。ていうか、禁煙のコツとか、禁煙成功者のホームページ情報とか、真っ黒の肺の写真とかメールで送ってくれても嬉しいです。


2001/09/15 禁煙は失恋に似ている

 禁煙は失恋に似ている

 ニコチンをたってもう数日たった。1日目、2日目はものすごく大変だったけど、3日目からはニコチンガムも必要なくなった。たまに吸いたいとは思うが、「せっかくここまできたのに」という気分がアタマをもたげて、なかなか吸う気分にはならない。貧乏根性が役立つときも、たまにある。

 ところで、今回の禁煙を通じて、世の中にあふれている禁煙本というのは、全く役にたたないことはよーくわかった。ほとんどの禁煙本は、タバコを吸ったことのない清廉潔白純粋無垢なドクターによって執筆されており、ドクター自身は、時に地球とか国家とかいうマクロな立場から、時に喫煙者を心配するアイフル的な恋人のように、禁煙を勧めてくるのだけれども、彼らには少なくとも見落としていることがある。

 喫煙者がタバコを失うということの意味

 それは、中毒とか、依存症とか、そういう規範的で説得的で科学的な物言いを超えているんだよ。

 たとえば僕の場合、10年以上、雨の日も風の日も、自分とともにあったのはタバコなわけでしょ。風邪をひこうと、酔っぱらおうと、いつも僕はタバコと一緒にいた。

 だから、それをやめるってことは、中毒とか依存とか、そういうこと以上に、自分の身近な存在が失われるってことになるんだね、大げさだけど。

 で、それだけじゃなくって、今までタバコと一緒にいた記憶が、どこか思い出してはいけないようなもののように感じちゃうんだね。授業を抜けて河原で友達とタバコをむせながら吸っていたこと、とかね、そういう昔のオモイデがなんか色あせちゃう。だから、ものすごく喪失感がある。ほんとねー、たとえていうなら、失恋です、まさに。

 いや、別にいいわけをしているわけじゃなくって、僕はもう吸わないよ、絶対に吸わないんだけど、少なくとも喫煙者のパースペクティヴから見て、禁煙っていうものが、現象以上の象徴的な意味をもつってことを主張したいです。世に流布する禁煙論は、それを軽視している。

 禁煙は失恋に似ている


2001/09/16 悲しみ

 あまりにショッキングすぎて、日記には今まで書かずにきた。
 アメリカでのテロ事件には、心底コトバをうしなった。2機の飛行機はビルに吸い込まれ、巨大な爆発を起こした。あの夜は全然眠れなかった、世界大戦になるんじゃないかと本気で思った。

 でも、あの出来事の悲惨さだけがクローズアップされるのはまちがっている。同じくらいの悲惨な出来事は、世界のどこかでいつも起こっており、大抵の場合、被害者と加害者が時に入れ替わっている。
 しかし、それを差し引いたとしても、あの事件の世界の人々に与えた社会不安、負の感情、動揺はあまりに大きすぎる。いくら何でもやりすぎだ、あんまりだと思う。

 きっと報復は大規模にかつ長期間にわたって行われるだろう、そしてかの国は犯人を、それにつながる人々を執拗に追いつめるだろう。正義と自由の名のもとに。

 後世の歴史家は、この一連の出来事を何と記述するだろうか。明日のコドモたちの使う教科書には、どういうかたちで記されるのだろうか。

 なぜか切なく、どうにもやりきれない。


2001/09/17 バリウムバリバリ

 今日は健康診断だった。肺のX線、胃のX線、心電図、血液検査、大腸検査、尿検査等々をやった。

 結果はどうでるか知らないが、肺の検査の結果がほんの少し悪いといいなーと思う、ほんの少しだけだよ。もし、全然肺に問題なかったとしたら、せっかくつづけている禁煙の動機が失われてしまうから。

 それにしても、よく続いているわな。もしかして、僕はエライ子なんじゃないだろうか。本にはさ、「禁煙7日を超える頃には、吸いたいという気分が起こらなくなります」なんて書いてあったけどさ、アンタ、大嘘だってーの。バリバリ吸いたいってーの。「執筆者はタバコを吸ったこともやめたこともないんだろうな」と思ってしまうね。

 それにしても、バリウムはきつかった。なんで、イチゴ味なのかは知らないが、一気にのみほすことができず、結局紙コップに2杯も飲まされた。何度経験してもイヤだね、バリウムは。


2001/09/18 聖域なき健康改革

 中原、最近、みのもんた化しています。

 奥さん、オタクの食事、大丈夫?

 ということで、みのもんた的には、「聖域なき健康改革」を実施します。

 善は急げ。早速、先日、近所のスポーツクラブの会員になりました。清水の舞台から飛び降りる覚悟で、なけなしのオカネを払いました。年一括で払いました、敢えて。これで、絶対にモトをとらなアカンので、プールにはいくでしょう。

 それにしても、健康って宗教ですね。西森さんとこないだ話していて、「中原くん、そんなに長生きしたいの?」と言われて愕然としました。「長生き=いいこと」になってしまっていて、それを疑うことさえしなくなる。昔、筋肉少女隊の歌で「日本インド化計画」というのがあったけど、「日本みのもんた化計画」だね、まさに、健康は。

 まぁ、長生きしたいのかしたくないかは、いいとして、プールは気持ちいいので、これからもヒマを見つけていこうと思っています。


2001/09/20 NIMDA

 最近、NIMDAとよばれるウィルスが流行している。Microsoft社のIISというサーバとIEに感染するトンデモなく強力なウィルスだ。Windowsのファイル共有でも感染するらしい。ホントウにトンデモない。

 いろいろな人が「ニムダ、ニムダ」と言っている。それだけ被害が身近なのであろう。僕の知人の何人かからも被害の報告が寄せられた。みんなが怯えている。顔の見えない他者からの悪意ある攻撃によって、ネットワークに生きる人々の間に信頼感が失われている。

 ところで、「信頼がない社会というのは、とっても効率が悪い」と言うことが、多くの社会心理学者によって指摘されている。

 たとえば、よく彼らが例にあげるのが官僚制。官僚制とは、結局のところ「人を信頼しないシステム」であるという。組織内のすべての行為に権限が求められ、その結果は文書にあらわされる。多くの人々の監視のもと、タスクは達成される。

 特定の人の恣意に従って組織が動いてはいけない。特定の人の恣意が組織のパフォーマンスに影響してはいけない。特定の人を決して「信頼」せず、ルールと文書でタスクを進めようとするのである。

 最近、とみにウィルスの被害が広がるようになってきた。人々の不安によって、ネットワーク社会に信頼感が失われている。元来ネットワークというものは、近代の産物である中央集権的な官僚機構のアンチテーゼとして発展してきた。ネットワークを、「人を信頼しないシステム」にしてはいけない。失われた信頼を取り戻す試み / テクノロジーが、今こそ必要である。


2001/09/22 書類

 最近、とみに書類が増えている。決算時期だからだろうか。たぶん、僕の所属機関でも半期に一度の書類作成シーズンになっているのだろう。

 なにせ、はじめて見る書類ばかりだ。まだ勤務して半年しかたっていないのだから、それはアタリマエで、僕にとっては、それはルーティンワークではない。

 でもな、ルーティンにして愉しめるほど、オモシロクさはなさそうだから、さっさと書類を書いてしまおう。


2001/09/23 自由で、オモシロ、無責任

 書類シーズンの話は昨日したけれど、9月末といえば、そろそろ、僕にとっては来年の研究計画をたてるシーズンになる。新しい研究プロポーザルを作成し、予想される成果をPRする時期なのだ、この時期は。今やっておかなければ、来年にはいって、すぐに新しい研究をすることはできない。

 先日、山内さん@東大と新しい研究プロジェクトについて話し合った。来年、僕らは大学生・大学院生・社会人を対象にしたeLearningの研究プロジェクトをスタートさせる。eLearningといっても、フツウのeLearningぢゃないよ、フフフ。

 戦略的になっている自分に酔いしれながら、プロポーザルを考えるとき。研究の中でこれほど自由で、これほどオモシロク、そして無責任な時間はない。


2001/09/24 プラトニックラブ

 飯島愛の自伝「プラトニックラブ」のテレビ番組を見た。
 愛を信じている、と言って憚らない愛ちゃんのまわりは、やっぱり<愛>がたくさんあった。

 あれも愛、これも愛

 人から強奪した金品で女の誕生日を祝う男の愛、人を愛せずにきた男の愛、どこまでもすれ違う親の愛。

 あれも愛、これも愛

 人の数だけ、人に語られるだけある無数の愛に、少し辟易とした。そんなに簡単に口にだしちゃいけないよ。そうこうしてる間に、あれも、これも、それもホントウになっちゃうから。


2001/09/26 変化

 聖域のない健康改革の中の目玉プロジェクトのひとつ、禁煙プロジェクトは無事に展開している。禁煙を始めた頃は、あまりのつらさに、人に会うたびにヤク中毒患者のマネをして「ヤク欲しいんだよ、今欲しいんだよぉ」とすがってみたり、それがかなえられないと知ると、ビエーン、ビエーンと泣いたりしていたが、最近は、タバコをあまり吸いたいという気持ちが起こらなくなってきた。

 もちろん、タバコをおいしそうに吸っている他人を見ると、少し、ほんの少しだけ羨ましいなーと思うこともあるけれど、うらやましさは長続きせず、あぁ、あのヒトタチは「まだ禁煙してないピーポー」なんだよなー、と思うようになった。

 レストランでは、タバコの煙のにおいのする場所にいくのがイヤになった。ウェイトレスに自分から、「禁煙席」と言ったことに気づいて、とっても驚いた。なんという変化であろうか。

 まぁ、まだまだ禁煙ははじまったばかり。でも、今度こそは成功させたいものである。ちなみに、僕と一緒に禁煙を誓った姫野くん@大阪大学大学院は、今日禁煙を断念したそうだ。

 ホホホホホ


2001/09/27 特許

 例のごとく書類の多い日だったけれど、何とかかんとかそれを「やり過ごし」、夕方には都内の特許事務所へ。弁理士さんによるヒアリング。特許申請はこれで2回目なんだけど、弁理士さんっていうのは、スゴイなーとあらためて思う。いきなり他人の開発したシステムを見せられて、それでシステムの機能を理解しちゃうんだからさ。

 特許申請では、システムの「構成要素」と、その「相互作用」と「効果」を明らかにするといい、とよく言われるけれど、今回は2度目なので、ちょっとだけ、こうした弁理士さん的思考についていけた気がする。めでたい、めでたい。

 特許は公知になる前に出願しなければならない。時間はあまりない。前進あるのみ、振り返るヒマなんて一瞬だってない。

 そういえば、朝日新聞によると、論文を書く前に特許をとりたい、と答える研究者が、50%を突破したとのこと。前年が20%台だったので、急増したことになる。特許とったからと言って、売れるとは限らないが、大学の大競争時代がはじまろうとしていることは間違いない。


2001/09/28 琵琶湖博物館

 琵琶湖博物館という博物館がある。博物館マニアな人、あるいは教育工学っている人にとっては、ちょっと有名な博物館なんだけど、ご存じだろうか。

 琵琶湖博物館のコンテンツは、ズバリ琵琶湖である。琵琶湖とともに生きる人間。すなわち、人と環境というデカイテーマのもとに、歴史学あり、民俗学あり、生物学あり、魚類学ありの何でもゴッタニ博物館になっている。ディスカバリールームとよばれる、チルドレンズミュージアムっぽい展示もある。何でもアリなのだ。

 展示には、ところどころディズニーっぽい演出とかもなされている。時には、皮肉とかお笑いの利いた演出もある。見た目がいわゆる「教育、教育」しておらず、とてもかっこよい。

 琵琶湖博物館については、「博物館を楽しむ」という本が岩波からでている。琵琶湖博物館がどのようにつくられたのか、を紹介する本でとってもオモシロイ。似たような本には、「ハンズオンは楽しい」や、やや専門的になるけれど、博物館のマネジメントを暑かった「ハンズ・オンとこれからの博物館」なんかがある。是非、ご一読いただければ、と思う。


2001/09/29 仕事

 僕は仕事が人並み程度には速いほうだと思う。仕事はあまり好きではないが、仕事を早く、そして効率的にこなすことに戦略をたてるのは大好きだ。この場合の仕事とは、クリエィティヴな仕事ではない。ある程度ルーチン化されたタスクである。

 仕事をはやくこなすコツはいくつかある。

1.困難な部分は避けること

 仕事を達成するためには、いくつか困難な部分があるだろう。困難な部分と容易な部分、そいつらがマゼコゼになっているのが仕事というものだ。それでは、困難な部分にぶちあたったら、どうするか?
 答えは、真っ正面からぶち当たることを避けるだ、と僕は思っている。困難な部分は、もし、それを克服できればスゴイことであるが、確率的に失敗する可能性が多いからこそ、困難なのである。困難な部分にとらわれて、容易な部分にとりくむ時間がないというミスを、僕らはよく経験しがちだ。すべてを順番通りにこなす必要はない。ムラがあったっていいじゃないか、できない部分があったって、いいじゃないか。
 仕事に取り組むマエには、そうしたサブタスクの困難さを判断し、最適な取り組み方を心みたいものである。心理学的に言えば、仕事に対するメタ知識が必要だ。

2.こだわりを捨てろ!

 僕が中学校の頃、こんな女の子がいた。その子は、テストの頃になると、自分が授業中に書いたノートをもう一度清書する。色鉛筆や蛍光ペンを使った完璧なノートだ。字のミスすらない。彼女にとって勉強とは100%のノートをつくることに他ならなかった。それが彼女のこだわりでもあった。
 しかし、テストの点はといえば、どうも今ひとつである。
 彼女がおかしたミスは、彼女のこだわりにあった。今まで書き留めたノートを整理するのは必要なことかもしれないが、そのためにもう一つ完璧なノートをつくる必要はない。彼女は自らのこだわりのために、「学習すること」を「ノートをつくること」と同義にしてしまった。知識の整理は、授業中に使用していたノートの上でもできるし、アタマの中でもできたハズだ。
 ヨノナカの常識に反して、こだわりを捨てることを僕は提唱したい。仕事の効率を阻害し、人々の自信を失わせているのは、あんがい自分の心であったりすることが多い。

 少なくとも僕に関する限り、ルーティン化されたタスクは好きじゃない。はやく終わらせて、それ以外のことに時間を割いた方がいい。そのためには、戦略家になるべきだと思う。


 NAKAHARA,Jun
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