The Long & Winding Road - 2000/12


2000/12/01 プロジェクト終焉!

 ほぼ一年にわたって僕らのアタマを悩まし続けたProject BASQUIATが昨日、終焉を迎えた。西森さんが雑誌論文を書き上げ、無事に投稿したからだ。「せっかち」かつ「生き急いでいる」と評されることの多い中原としては、この数日間を本当にドキドキ気分で迎えた。なにせ締め切りは迫っているんだけど、僕にできることは、「これでいきましょう!」とか「頑張りましょう!」とか、英文要約をシコシコと書いたり、校正したりするくらいだ。西森さんには、この場を借りて、お疲れさまを言いたい。

 西森さん、あなたのこだわりには、アタマが下がりました。
 3日3晩、ずっと研究室につめていて、マトモに寝てないんじゃないですか?
 ゆっくりご静養ください。お疲れさまでした。

 月並みだけれども、終わりははじまり。
 BASQUIAT(バスキア)からSLATE(スレート)へ

 僕らの研究チームでは、既に次のCSCLプロジェクトが動き出している。経済と歴史と地理を協同学習によって学んでしまおうというゲーム型CSCLだ
 このプロジェクトは、当初PDA端末を使うプロジェクトだったが、もうPDAは捨ててしまった。技術的に判断して、PDAを学習者が楽しめる環境として使うには、まだ早すぎる、という判断だった。

 BASQUIATの開発プロセスも大揺れだった。そして、おそらくSLATEも激震がはしるのだろう。

 そして人生は続く。

追伸.

最近、アホほど忙しく、そしてアホほど疲れている。日記に書きたいこともたくさんあるんだけど、少しずつ書いていきます。


2000/12/02 四谷にて

 先日、あるところに用事があって四谷に行ったのだけれども、時間が少しあまっていたので、駅近くの喫茶店にはいった。

 打ちっ放しのコンクリートの壁、天井をはう鉄パイプ。喫茶店は、おしゃれな雰囲気で、上智大学の学生と思われる学生たちが、レポート用紙やファイルやラップトップを囲んでディスカッションしていた。

 彼らのディスカッションは続く。おそらくは、ゼミの発表やプレゼンテーションを控えているのだろうか、あーでもない、こーでもないといいながら、ディスカッションをしている。耳をすませば、彼らが話し合っているテーマは性教育からインターネット広告まで、いろいろだ。

 ○○くんのだした案の根拠は何なの? あなたの意見にはEvidentがないのよね

 どこからか気の強い女の子の声が聞こえてきた。「僕のしゃべりかたにそっくりだなー」と思いながら、ぼんやり彼女の声を聞いていたら、もう少しで用事に遅れるところだった。


2000/12/03 アホほど忙しい!

 いつの日記だったかは忘れちゃったけど、昔、こんなことを書いた。「忙しい」の「忙」という字は、「人」を「亡ぼす」と書く。

 MELL Projectのミーティングに出席
 MELL Projectのシステム管理を学ぶ
 MELL Projectのユーザ登録作業
 MELL Projectのプレジデントペーパーづくり
 BASQUIATプロジェクトの論文執筆サポート
 アンケートのデータベースづくり
 アンケートの分析
 Scio ProjectのWeb Interface Design
 Scio Projectのミーティング
 Scio Projectのためのマニュアルづくり

 これが最近一週間の僕の全タスクだ。よく熱暴走しないで、やっているなーと我ながら感動してしまう。日記もネタは腐るほどあるんだけど、なかなか書けない。しかし、さすがに煮詰まってきた感がある。今日は、YAHOO Auctionでつい衝動買いをしてしまった。買ったものはヒアリングマラソンのCD。ヒアリングマラソンは1日3時間の英語ヒアリングを、学習者に課している。どこにそんな時間がある?

 ゆっくりと本を読みながら、先行研究をまとめる時間が欲しい。
 Life goes on...


2000/12/04 おおよそクリエイティヴなお仕事は

 最近、「起業家教育で子どもが変える」という本を読んだ。教育や学習のところの考察については、うーんと首をかしげてしまうところが多いし、「起業家教育=教育の閉鎖性を打破する処方箋」という単純な図式にはマッタク納得できないけれど、まぁ、愉しく読めた。

 起業家教育には、2つの側面がある。一つはお金とはいったい何なのか、お金の概念を教える側面。もう一つは自分のやりたいことを明確にし、それを企画にして、相手にわかるように説明し、協力を得て、実行にうつし、その成果を確かめるという側面。

大江建(1999) 起業家教育で子どもがかわる 日本経済新聞社

 なるほど、起業家教育の1つめの側面については、納得できる。これまで教育は「お金」とは無縁の聖域だった。だって、経済とかお金のことって、歴史とか地理とかと比べると、カリキュラムになっていることって少ないでしょう。
 でも、上記の引用の2つめの側面に関しては、マッタクわからない。というか、これはおおよそクリエイティヴなどんなお仕事に関しても言えることであって、それが起業家教育なのかなーと思ってしまうのだ。

 これに関連して、学部生と話していて、いつも疑問に思うことがある。それは何かっていうと、以下のような彼らの認識だ。

 卒論なんて、マッタク役にたたない。ていうか、大学で卒論なんか書くけれど、あんまり役にたつことってないでしょう。

 特に、いいところに就職が決まって「将来は起業してやる」なんていう野心の強い学部生にこの傾向は強いような気がする。

 こういうことを聞くと、いつも「そうかなー」と思ってしまう。卒論を書くと言うことは、自分の研究関心を明確にして、それをプロポーザルにし、指導教官や先輩の協力を得て、調査を行い、その結果を考察するってことだ。これは、さっきの起業家教育の後者の側面にほぼ呼応する。つまり、おおよそクリエィティヴなタスクをするってことは、研究の場であれ、ビジネスの場であれ、あんまり差異はないような気がする

 あんまり言うと、「オマエもじじい臭くなったな」と言われてしまうから、あんまり言わないけれどさ。そう思いませんか?


2000/12/05 オンライン教育

 最近、二つの本を読んだ。

 坂手康志(2000) Eラーニング - 教育のインターネット革命 東洋経済新報社
 木村忠正(2000) オンライン教育の政治経済学 NTT出版

 Eラーニングの方は、要するに「WBT(Web-based Traning)で教育が変わりますよー」という本。教育を個人の投資とみなして、インターネットによる教育の市場化を説いている。
 それにしても、WBTを用いたインターネットによる学習はホントウに<革命>なんだろうか、とふと思ってしまう。だって、結局やっていることは1960年代に流行したCAIなんだもん。それがネットワーク上にのっただけのような気もする。

 後者の本は、なかなか深いから、単純には要約できないんだけど、「教育の情報化」という概念を疑い、それにまつわるパラドクスや言説の矛盾を解読しようとする論調はオモシロイと僕は思う。


2000/12/05 ver2. 10年ぶりの気合い

 まぁいろいろあって、今年は気合いをいれることにした。高校のときには、もう「いい加減」だったから、こんなに気合いをいれたのは、10年ぶりくらいだろうか。

 何に気合いを入れたかっていうと、ズバリ「年賀状」です。
 年賀状ったら年賀状なのだ。

 決してヒマなわけじゃないんだけど、合間をぬって今年は少しマジメにつくってみました。去年、一昨年と、インターネット上に公開されている年賀状コンクールの優秀作品をペチってつくりましたが、今年は僕自ら書き下ろしです。

 年賀状に気合いをいれるにあたりデータベースもつくったし、これで来年も安泰だ。


2000/12/06 コラボレーションしませんか?

 今日は午後からソフトハウスのWebプログラマーとの打ち合わせがある。昨日はそのためにWebのインタフェースの下書きを紙に描いていたけれど、まぁ、これが大変きわまりなかった。アイデアはアタマの中にゴマンとわき出てくるんだけど、それを描くことがままならない。つまりは、ぼんやりとしたアタマの中のイメージが、「カタチ」にならないのだ。我ながら、デザインとか絵の勉強をもっとしておけばよかった、と後悔するばかりである。

 考えてみれば、僕は絵が苦手な子どもだった。正確に言えば、写実的にモノゴトを描くのがめっぽう苦手なのであって、レイアウトとかレタリングとかは結構得意な方だったのだけれども、いつもヘンチクリンな絵ばかり描いて、美術の先生を困惑させていたのだと思う。

 ところで、教育とか学習の世界に<デザイン>という新たな視角がはいってきたのは、最近のことだと思う。僕のように理論をゴリゴリするのじゃなくて、実際にソフトウェアやWebアプリケーションをつくるような研究を志向すると、すぐにデザインの問題にぶちあたる。

 子どもはどんなデザインのモノを好むだろうか?
 学習者にとってわかりやすくって使いやすいモノのデザインとは何か?

 理論や理念の世界を「カタチ」に翻訳するのがデザインという営為ならば、「デザインをどのように行うか?」というPrincepleは、当該の理論や理念に求めることはかなりムズカシイ。理論や理念にデザインの原則が明示されていれば、それほど問題にはならないのだけれども、そううまくはいかないのが世の常なのだ。だから、どうしてもセンスとか子どもの反応に対する予測が必要になってしまう。

 僕の場合は、センスや子どもの反応を予測する能力は、あいにく持ち合わせていないので、結局デザイナーと言われる人々とのコラボレーションになる。でも、このコラボレーションが案外ムズカシイのだ。僕の方も<デザイナーの世界や論理>をある程度わかっていないとならないし、デザイナーの方も<教育の世界や意味体系>をある程度わかっていないとならない。お互いにとって、まるで異文化体験そのものだ。

 そういえば、最近、NHKの「デジタルスタジアム」という番組を見た。若いクリエイターのデジタル作品を、キュレータが批評していくという感じの番組で、かなりオモシロイ。なかには、「なんじゃこら!」と思うモノもあるけれど、だいたいの作品は、荒削りながらも、それをクリエイトした人々の呼吸が聞こえてくるようだ。デジスタにでてくる若いクリエイターの一人でもいいから、教育のデザインを志す人がいないかなーと思ってしまう。教育とデザインのあいだの世界って、やっている人も少ないから、それを専門にしたら、ものすごく効率的に仕事ができると思うんだけどな。

 いつか、コラボレーションしませんか?
 Collaborative }Creation of Learning of Tomorrow...


2000/12/07 Wonderful Tonight

 昨日、エリック・クラプトンのベスト版を聴いた。僕は結構クラプトンが好きで、クリームの時代から、一応、押さえているんだけど、やっぱいいなー。

 大好きなレイラは、原曲では非常に印象的に挿入されているピアノ部分がカットされていて、ちょっと残念だったけど、まぁ、いいか。

 僕がはじめてクラプトンを聴いたのは、中学生の頃で、Wonderful Tonightの半分イカレたようなギターと歌詞に魅了されちゃったりなんかした。

We go to a party
And everyone turns to see
This beautiful lady
Who's walking around with me

And then she asks me
"Do you feel all right?"
And I say "Yes, I feel wonderful tonight"

(中略)

And then I tell her
As I turn out the light
I say "My darling you were wonderful tonight
Oh, my darling, you were wonderful tonight"

"Wonderful Tonight" by Eric Clapton

 要するに、この歌で表現されている情景っていうのは、ある男がパーティに女の子と一緒にいって、彼女に「いい感じ?」って聴かれて、イエ帰って、アカリを消して、一緒に寝るっていう感じなんだけど、当時の僕は、この歌詞がいたく気に入って、「いやー大人だべさ、大人になったら、Wonderful Tonightを僕も経験するんだべか」と思っていたりした。当時の僕にとって、Wonderful Tonightは鼻息フンフンもののコトバだったんだね。

 で、さっき、ふと歌詞カードを見たら、Wonderful Tonightは「すばらしい夜」って訳されていた。おいおい、「すばらしい夜」はないだろうに!、そのまんまじゃん。なんかないのかねー、この<鼻息フンフン状態>を表現する名訳は。


2000/12/08 リバーダンス

 ちょっと前のことになるけれど、先日、リバーダンス2000を見に行った。リバーダンスは、アイリッシュダンスに異国のダンスを結合させたショーで、1995年からはじまった。最初は、エギジビジョンの合間に演じられたショーだったんだけど、それが意外に好評で、全世界で公演されるまでに発展してしまったらしい。

 アイリッシュダンスっていうのは、映画「タイタニック」で、ケイト=ウィンスレットとレオナルド=デカプリオが踊っていた陽気なダンスで、どこかケルト系の匂いのある音楽に、タップが組み合わさったような踊りだ。

 どうでもいいんだけど、僕は、深く感動すると悲しくもないのに、涙がとまらなくなってしまいます。リバーダンスも一番最初の曲「Reel Around the sun」がかかった瞬間に、涙が止まらなくなってしまいました。スゴイよ、この迫力は。ライオンキングのときも涙がでてしまってけれど、今回も不覚にも泣いてしまった。スゴイね、この演出は。

 僕、ケルトの血が流れているのかも


2000/12/09 ただいま仕込み中

 今日は、夕方から出かける用事があったので、朝はやくおきて、今度やらなければならない遠隔講義のネタ仕込をしていた。

 今度、僕がやる講義は「Toys for play & learning」。なんと、サブタイトルもついてて、「Learners just wanna have fun!」。後者はシンディローパーの曲名をパクっちゃった。なんつって、って感じだね。
 前からトイについては考えてみたいと思っていて、これを機会に少し取材してみようということになったわけです。

 トイ研究といえば、有名なのはマサチューセッツ工科大学のMedia Lab.ですね。ミッチェル=レズニックとかが、今、「Toys of Tommorow」って5年間のプロジェクトをやっています。たぶん、われわれが予想もしないようなコンセプトをだしてくるんだろうな、きっと。

 このプロジェクト、予算もすごくって、一年で2500万ドルなんだって。2500万ドルっていったら、アンタ、単純に「1ドル=100円」で計算したって、25億だからね。それが6年間で、150億ですよ。きゃー。

 それにしても、何にそんなに金がかかるんだろ? 叶姉妹じゃあるまいし、ゴージャスだよなー。それにひきかえ、僕らの研究って、お金かからないよなー。文系の研究の中では、一番お金かかる分野ってイヤミをいわれちゃうけど、ぜんぜんそんなことはないですよね。

 で、肝心の講義の仕込みはどうなったかっていうと、結局、煮詰まりました。これは取材だな。おもちゃ屋にでも行ってくるか。


2000/12/10 死者の学園祭

 かなり前のことになるけれど、お台場の東京ジョイポリスに遊びにいったことがある。

 東京ジョイポリスを訪れるのは、実はこのとき2度目で、その前は、確かMediaLab@MITの展示がはじまるということで、セガの森さんの案内でここを訪れた。前回は研究の用事で来たから、知的好奇心は満足したが、あんまり遊べなかった。2回目は完全に遊びできたので、十分堪能することができた。

 東京ジョイポリスには、数々のアトラクションがある。その中で、僕が一番気に入ったというか、今でも覚えているのは、「死者の学園祭〜3Dサウンド〜」というアトラクションである。

 アトラクションは6畳ほどの部屋で行われる。部屋には、真中に木製の机と椅子があって、プレイヤーはここにすわる。目の前には、ヘッドホンが置いてあり、次にこれを耳に当てなければならない。ほどなくアトラクションがはじまると、6畳の部屋は恐怖に支配される。耳元でささやく声、誰かが床を歩く音。臨場感がすこぶる高いので、まるであなたの横に何かがいるような気になってしまう。おまけに机と椅子は、アトラクションの進行にしたがって揺れちゃったりする。

 このアトラクションで使用されているモダリティは、聴覚と触覚だけである。部屋は真っ暗なので視覚は必要ない。視覚というのは、人間のモダリティの中で一番情報量が多いのであるが、情報量に欠損があったとしても十分に怖い。否、視覚がないだけ余計に怖いのだ。

 マルチメディアとかVRとか、なんだかんだいわれるけれど、工夫次第、つまりは演出の力で、あまりあるリアリティを再現できるものだ。死者の学園祭を体験しながら、圧倒的な恐怖に身を震わせ、僕は真っ暗な部屋で、そんなことを考えていた。


2000/12/11 四月になれば彼女は

 四月になれば彼女は

 サイモン&ガーファンクルの密かな名曲である。サイモン&ガーファンクルと言えば「明日にかける橋」とか「サウンド・オブ・サイレンス」とか「スカボロフェアー」とかがよく知られているけれど、僕は一番この曲が好きだ。タイトルもほどよくワビ・サビがきいていて、すこぶるよろしい。

 前から何度も言っているけれど、僕はどうも<人と別れる>というのが苦手で、そうした場面に出くわすと、いつもどういう顔をしていいかわかんなくなっちゃう。「ほな、さいならー」という具合に、おどけてみせるのも変だし、「じゃあ」と言って、はにかむのも、キザったらしいし、かといって、「おいおい」泣くのもどうかと思う。つまり、僕には自然な別れができない。だから、いつもそっけなく背中を向けてしまう。

 四月になれば彼女は

 人が、ある曲を想い出すとき、その曲の背後に、人はある確かな光景を見るという。サイモン&ガーファンクルの密かな名曲の背後に、僕は何を見たのか。僕は、<かつての僕>を二度と繰り返さない。


2000/12/12 アパホテル610号室

 今日は、ある研究プロジェクトのミーティングで、京都にきています。信じられないくらい朝早くにおきて、京都にきました。で、一日中ミーティング。午後8時くらいに用事がすべて終わって、京都駅前のビジネスホテルに戻ってきました。今日はあんまり寝ていないから、早く寝ようと思ったんだけど、いやー眠れん。不眠だ、不眠だ。マッタク目がさめています。さっきは、あまりにも眠れないので、ガサッと布団から起きて、頼まれていたデータベースプログラミングをやっていました。こういうときってオモシロイくらいに、アタマがさえていて、ホントウにチャッチャッカチャッチャッカとやってしまえるものです。とりあえず、疲労でアタマおかしくなってるから。

 それにしても、久しぶりのプログラミングです。半年くらいはやっていないはずです。結構忘れているかなーと思ったら、リファレンスなしで、すぐにできた。一度コツを覚えてしまえば、何とかなるもんなのかな?

 それにしても、このホテルで、この真夜中に浴衣着てデータベースをつくっているのって、俺くらいだよなー。さっきフロントですれ違ったオッチャンは、完全に酔っ払って、<あさっての世界>に生きていたし、どうやら無料のCS放送があるらしいから、きっとみんな見てるんだろうなー。僕も見ようかなーと思ったけれど、これ以上、目がさえてサーバーをたてはじめると怖いので、やめておきます。

 でもやっぱ、見ようかな?


2000/12/13 Pedagogical Content Knowledge

 ちょっと今日は専門っぽい話。「教える」という事柄について、少し専門的に考えてみたいと思います。

 教育学では、一般に、人が誰かに何かを<教える>というときには、一般にContent Knowledgeとよばれるものと、Pedagogical Content Knowledgeという二つの知識が必要だといわれています。まぁ、このほかにもあるっちゃーあるんだけど、まぁ、ここではこの2つが大切だってことにしておきましょう。

 Content Knowledgeというのは、要するに「コンテンツ(内容)に関する知識」ってことだから、つまりは教える内容ですね。たとえば、コンピュータを教えるってときには、コンピュータそのものの知識のことです。これは、絶対そうだよね。何かを教えるときには、教える内容がダメなわけで、教える内容がないのに教えることはできないわけでしょ。

 一方、Pedagogical Content Knowledgeというのは、「ペダゴジカル(教授学的)にどうやってコンテンツ(中身)を教えようかなー的知識」ってことですね。つまり、あるコンテンツ(内容)を、学習者の状況をふまえつつ、どのように教えたらいいのかってことに関する知識です。簡単にいうと、コツみたいなもんですね。

 <教える>ということがうまくいくためには、この二つの種類の知識を切り離すことはできません。どちらも必要なのです。

 たとえば、さっきのコンピュータの例でいえば、コンピュータについてアホほど知っている人が、決してよい教師ではないでしょう。専門用語をガシガシと使って、ユーザーがなにを考えているのかを読めない人なんかは典型的に、イケてない教師なわけですが、これはContent Knowledgeが肥大化していて、Pedagogical Content Knowlegeがないってことになるわけです。

 また、教えるのはうまいけど、教える内容がないって場合もありますよね。本人が全然わかっていないっていう感じかな。そういう人は、Pedagogical Content Knowledgeがあっても、Content Knowledgeはないってことになるんです。
 要するに、どちらもなきゃダメなんですね。

 今日、ある会合で静岡大学の大島先生と話す機会があって、この二つの知識の話になりました。

 たとえば、教師を対象としたネットワーク上の学習コミュニティの場合、どうやって、教師の<力量>とか<実践力>というものを向上させるか、という話になりますね。だいたい、そういうことが問題になった場合、「ネットワークで指導案を公開する」とかいう話になって、そういうことを実際にやっている<教師支援サイト>ってのもあるみたいですが、ここで疑問としてでてくるのは、Pedagogical Content Knowledgeはホンマにつくのかいなーってことなんですね。まぁ、もっと建設的に考えると、Pedagogical Content Knowledgeというものを獲得するようなサイト構成、ネットワーク環境って、どんなものかいな、と疑問に思うわけです。

 まぁ、これから教師支援と名の付くようなWebサイト、サーヴィスは増えていくと思うんだけど、ここらあたりをキチンとつめないで、安易に指導案、安易に掲示板では、それこそ、「なに」を支援しているのか、わかんなくなっちゃうと思います。


2000/12/15 あんな風に生きられたら

 甲南女子大学の上田先生が、クリスマス前に「Party of the future」のワークショップをするらしい。また、28日には、ミュージシャンのクニ河内(60歳)と一緒に、伝説のハードロックバンド「クニ河内とかれのともだち」を三十年ぶりに復活させるらしい。上田先生も7曲、お歌いになるとか。

 先日、上田先生から、このPartyとliveのお誘いをメールで受けた。年末はどうしても時間がとれず、非常に残念でシカタがないんだけれど、出席できない旨の返信をした。重ね重ね残念至極である。

 上田先生のRiskyでCrazyでSexyでいて、かつPlayfulな研究、そして先生の精力的な活動を目にするたびに、僕はいつもひとつの想いに至る。

 あんな風に生きられたら・・・

 僕の目に映る先生は、いつもかっこよい。


2000/12/17 Demo or Die

 To be or not to be, That's the problem.

 もちろん、周知のとおり、シェークスピアの戯曲にでてくる有名な台詞である。この台詞、昔は、多くの英語の教科書にのっていたくらいであるから、おそらく知らない人はいないであろう。ところで、それでは次のような台詞はご存じだろうか?

 Demo or Die ?

 要するに、「デモンストレーションするか、死ぬか?」である。マサチューセッツ工科大学のメディアラボに伝わるコトバであるらしい。
 いつもチャレンジングで、次世代のメディアをデモンストレーションすることを組織の目標としているメディアラボならではのコトバである。

 メディアラボの研究の魅力は、開発物のコンセプトの斬新さばかりでなく、そのデモの美しさにある。非常に、モノの見せ方がうまい。ハッキリ言って、技術的にはタイシタことがないものでも、メディアラボのデモンストレーションは、見ているだけでオモシロイのだ。人を魅了してやまないのだ。

 メディアラボの「見せ方」のうまさは、「Demo or Die ?」のような厳しさの中から生まれたものである。その厳しさを思い知る。


2000/12/18 みんな買ってもらっているよ!

 先日、通りを鼻歌交じりで歩いていたら、どこからか母親と子どものやりとりが聞こえてきた。

子ども 「ねぇ、あれ買ってよ」
母さん 「どうして、前に似ているの買ったでしょ」
子ども 「ねぇ、いいでしょ」
母さん 「似ているのもっているんだからいいでしょ」
子ども 「みんな買ってもらっているよ」
母さん 「みんなって誰?」
子ども 「ええと...いいから、みんなだよ」
母さん 「みんなじゃないんでしょ」

 子どもがここで用いたのは、有名な「みんな買っているよ」っていうレトリックである。要するに、「みんな買っているんだから、僕も買ってもらうのが当然だ。もし、僕だけ買ってもらえなかったら、みんなの輪の中にはいっていけないじゃないか!」ということが言いたいのである。このレトリックは、密かに大人を脅迫する子ども界の伝家の宝刀といってもよい。

 まぁ、だいたい、子どもが「みんな買っているから、僕にも買って」というときには、その「みんな」は一人か二人であることが多いから、この母親のとった反応は正しい。「みんなって誰よ?名前をあげてごらん」といったら、たいていの子どもは答えに窮するはずだ。

 ふと、歩きながら、そんなことを考えていたら、「ちょっと待てよ」という思いにかられた。もし、僕だったら、なんて答えるだろうって思ってしまったのだ。

子ども 「ねぇ、買ってよ」
じゅん 「どうして、前に似ているの買ったべさ」
子ども 「ねぇ、いいでしょ」
じゅん 「似ているので我慢しなさい」
子ども 「みんな買ってもらっているよ」
じゅん 「じゃあ、絶対にだめだ」
子ども 「なんで」
じゅん 「オリジナリティがないから」
じゅん 「どうせなら、みんながまだ目をつけていないブツを発掘しておねだりしなさい」
じゅん 「はい、以上」

 たぶん、子どもはグレる。


2000/12/20 未成年の主張

 普段はNHK以外のテレビをあまり見ない僕であるが、火曜日「学校へ行こう!」(TBS)だけは、なるべく見るようにしている。この番組のコーナーのひとつに「未成年の主張」というのがあって、これがモノスゴク面白いのだ。毎回、V6の誰だかわからんけど、A氏とB氏が、フツウの高校を訪問し、そこの高校生が学校の屋上から主張をする。

 未成年の主張は、多岐にわたる。

 異性や恋愛のこと、友人を傷つけてしまったこと、自分の趣味、学校の先生に言いたいこと。

 ふだん言いたくてもいえないことが、屋上から、高校生の生の声で語られている。もちろん、テレビに演出はつきものだから、それらがすべて真実であるとは思っちゃいないけれど、それにしてもオモシロイ。

 中には聞いているだけで切ないものもある。笑いなしでは聞けない主張もある。でも、どの主張も高校生の生の声である。

 ところで、僕も高校生の頃のことを思い出してみる。今から7年前以上のことだ。ぼんやりとした記憶の中を模索すると、僕にもいろいろ主張があった。

 親に対して、学校の先生に対して、友人に対して、異性に対して。トリヴィアルなものが多かったように思えるが、それはそれ。主張に変わりはない。

 それから7年以上の月日がたった。でも、僕は主張をしないでシコシコと生きているかと言ったら、それはウソになるわけで、今でも、主張して生きているつもりではあるけれど、その主張の内容は少し変わってきたような気がする。

 ケツの青い25歳のハナ垂れ小僧が、すべてわかったような口をきくんじゃない!

 と言われそうだけど、それが年をとるってことなのかな、って思う。
 毎週繰り返されてはいるけれど、屋上に上るすべての高校生一人ひとりに異なる、彼らの主張。その姿は、懐かしくもあり、わけもなく切ない。


2000/12/21 「未来日記」で学ぶ!

 我ながら、流行にこびちゃったかなーと思ったけど、なんかオモシロそうだから、映画版の「未来日記」をビデオで借りてきて、見ちゃいました。

 最初は、「なんだかなー、最近のヤングは、ブツブツ」と言いながら見ていたけれど、この未来日記というヤツを考えた人、アンタはエライ。よくできていますね。

 こういうハイパテキスト型のシナリオって、書くのムズカシイでしょうね。登場人物の行為や台詞は一応、アドリブなわけだから、シナリオもad hocに変化していくのでしょうね。この映画、なかなか面白く、かつ、ためになる映画でした。

 映画版「未来日記」では、高校生3人が主役ですね。男の子2人に、女の子1人。
 ひとりの男の子は東京の今風の高校生で、<トータス松本>みたいな顔をしていて、そんでもって、もうひとりの男の子は、<イガグリ>みたいなアタマをしている田舎の高校生。で、女の子は、これが、アホほど可愛い。芥川龍之介流に言うならば、アタマから食べちゃいたい。もっとスマートな表現でいうのなら、吐きそうになるほど可愛い。

 は?

 で、あらすじは、隠岐の島にドンブラコドンブラコと高校生3名がいくわけですね。でね、全体をめちゃくちゃはしょって簡単にいうと、最初、<イガグリくん>は「未来日記」に「おぬしは、恋のサポート役に徹しろ」と言われちゃうわけですね。「未来日記」の要求は、相変わらず不条理で、これが番組じゃなかったら、「バカヤロー」って便所スリッパでアタマたたいてやりたくなるんだけどさー、番組じゃしゃーないな、これ。で、その結果、禁じられた恋に、<イガグリくん>はものすごく心に葛藤を覚えてしまう。

 なんでワシがオマエらの手伝いせなアカンねん、このタコ!

 ってな感じだろうな。

 で、物語の後半は、今度は<トータス>が「未来日記」に「おぬしは東京に帰れ」と言われちゃうんだよね。大きなお世話だってーの。で、まぁ、彼も心に葛藤を覚えながらも、失意のうちに東京に帰る。

 最後はさ、って、実はこの間に複雑な物語があるっちゃーあるんだけど、もう一回隠岐にみんなで集まる。このころになると、自分の想いを貫こうとすれば、3名の関係に亀裂がはいるってことが3人ともよくわかっていて、結局、自分の想いっていうのを、消してしまうんです。

 意地悪な言い方をすれば、未来日記が自分の想いを貫くことを妨害するんだね。「アンタ、自分をとるの、他人をとるの?」ってな具合に、全員に通牒をつきつけていく。で、3人ともが「3人で物語を終えること」を<選択させられる>のです。やや抽象的にいうと、括弧付きの「人間的な決断」をすることを求められ、非人間的な決断をさせられちゃうんです。不条理なことを要求しつつも、当の本人たちにはそれを知覚させないという装置が、未来日記なわけです。こうして、未来日記で出会った3人は、未来日記で別れるのですね。

 うーん、不条理きわまりない。

 ところで、さっき、この番組はオモシロイだけでなく、タメになるって書いたんだけど、それは何かっていうと、この番組はー、大学生の教材としてオモシロイなぁって思うんです。ていうのは、僕はメモをとりながら、番組を見ていたんだけど、この番組が事例になるようなコムズカシイ話って結構あるんじゃないかなーと思っちゃったのです。

ナレィティヴアプローチ
プランと状況的行為
認知的不協和理論
ダブルバインド
ゲーム理論
演出とドキュメンタリー
権力と言説

 もちろん、これら理論のすべてを説明したりするのは無理だけれど、ある程度の「とっかかり」なら、この映画を事例に話すことができるんじゃないかなーって気がしました。

 前にも書いたけど、実は、今、僕は遠隔講義のネタを仕込んでいて、何かオモシロイ題材はないのかいなといろいろ物色している最中だったので、こんなことを考えてしまったのかもしれません。

 それにしても、一粒で2度おいしいグリコみたいな映画だ。


2000/12/22 IT時代の教師たち

 故あって、今日の夜、「IT時代の教師たちに求められる資質」というアホほどデカイ問いについて考えることになってしまった。まぁ、煮詰まりながら考えていたんだけど、ここで僕なりの見解を述べさせてもらう。

 IT時代の教師たちに求められる資質は何か?

 「IT時代=情報技術をみんなが使いこなしていく時代」、あるいは「IT時代=情報技術を使いこなしていく子どもが生きていく時代」と読み替え、そうした時代に必要な教育が、
「情報技術を活用した教育」と仮にするならば、僕なりの結論は、以下の1点につきる。

「IT時代の教師たち」に求められる資質は、第一に「教科内容の知識」と「情報技術を活用する知識・技能」と、それら二つの知識・技能を、実際の授業場面でコーディネートさせつつ、授業を達成するための知識・技能である。(知識・技能というコトバは本来は使いたくないんだけど、これを云々してあーだこーだいうのは、今の目的と反するので、ここは知識と技能に統一する)

 たとえば、情報技術を使用した国際理解の授業だったら、まず要求されるのは、「異文化に関する知識」、第二に「情報技術の操作法などの知識と技能」、第三に、「それらをむすびつけて、実際の授業を成立させる知識・技能」だ。

 でも、よく考えてみると、第二の「情報技術の操作法などの知識と技能」以外は、今まで現場の先生が、実際に授業を運用する上で、使用していた知識・技能である。でも、おそれる必要はないけれど、これを侮ってはいけない。道具が違うだけで、授業の磁場は大きく異なってくる。

 僕が以上のように言うと、絶対に返ってくる質問としては、以下のようなものが考えられる。

 じゃあ、それらの知識や技能をどう獲得したらいいのですか?

 それはハッキリ言って、僕には答えられない。なぜ、答えられないかっていうのも、理由がある。この手の問いは、無限遡及するからだ。だから、「答えられない」のだ。仮に僕が「○○の方法で学べます」と言ったとしよう。そうすると、次の問いは「じゃあ、○○するにはどのようにすればよいのでしょうか」と言った具合に、次々に問いが遡及していくのだ。「答えられない」ものは「答えない」。

 じゃあ、どうするか?

 少なくとも僕は、ある程度のことを把握したのなら、実際に授業をしてみるしかないのだと思っている。ナンダカよくわかんないんだけど、とりあえずやってみる。で、あとは、その結果を十分に「リフレクションする=吟味する」しかない。一人でリフレクションする必要はない。これは僕の修士論文になるけれど、やるんだったら、みんなであーだこーだ言い合って、リフレクションした方が、励みになるし、楽しいし、効果が高い。幸いにして、教師の世界には「研修会」というスバラシイものがある。校内の研修会が利用できないのなら、民間の研究会や、はたまたネットワーク上にもそうした場は存在する。そうしたリフレクションを行う場に、積極的に参加していくってことが重要だと僕は思う。

 以上があくまで僕の私見だ。いつものごとく、言いたい放題いってみたけれど、僕だって自信はない。自信がありそうでないのだ、ハッタリだ。
 できれば、是非、みなさんのご意見をお聞きしたいです。この日記上で、討論なんかができたらいいなーと思っているので、ご意見をメールなんかでお送りいただけたら、うれしいです。


2000/12/23 オヤジ?

 最近、ある方から、僕の噂を聞いた。

 中原くん、最近、日記で、<あー疲れた、でもがんばるぞ!>みたいな記述が多いけど、なんかオヤジっぽくなったんじゃない?

 中原くん、エィティーズ(80's)の仲間いりじゃない!

 Hey, Hey, Who are you talking about?

 エィティーズが何を指示しているかは、口が裂けても言いたくないし、確かに最近疲れていたのは事実だけどね。

 僕としては、<オヤジ>とよばれない「オヤヂ」を目指しているので、単に<オヤジ>になってしまうのは、いささか抵抗がある。

 ということで、今日から、自分の中で、<オヤジになること>に対して、ささやかな犯行をすることにした。

 理由なき反抗


2000/12/25 コンサルティング・ファーム

 「コンサルティングファームのすべて」という本を読んだ。

 コンサルティング会社というと、今まで僕の印象はスコブル悪く。それは僕の東大時代の経験(?)から印象が悪くなってしまったんだけども、この本を読んで、その印象は少し変わった。

 この本によると、コンサルティング会社の人たちは、決して「君にAssignしたDueにChangeがありました」なんて平気で言っちゃう神経の人たちではなくて、とてもクリエィティヴなオシゴトをしているのですね。

 要するに、僕流に彼らがやっていることを整理するならば、それは以下のとおりになるわけで、第一にクライアントの会社の問題点(issue)をあらゆる方法論を使って、把握し、先行事例を探し、そのissueに対するベストな視座(perspective)、あるいは場合によっては、ソリューション(solution)を提供し、評価の基準をつくる。結局、そういうことなんだよね。

 でね、これって、<研究>という営みのたどるプロセスそのものじゃんって思います。確かに、方法論は違うし、issueは違うけれど、やっている活動は、まず問題を把握し、先行研究をふまえて仮説や開発物をつくり、最後に評価をするってことだから、結局同じなんだよね。

 ていうか、こういうことは前にも思ったことがあって、それはテレビ局のディレクターさんの仕事も結局似ているんですね。結局、業務はこういうプロセスを踏襲します。もちろん、コンテキストやissueは違うけれどさ、前に似たような番組がないかを確かめつつ、自分の企画を立ち上げて、取材をして、番組を構成する。ほら、少し違う気もするけれど、結構似ていると思うんですね。

 要するに、僕が言いたいことは、何か「クリエイティヴな活動をする」っていうのは、結局同じコトなのです。ちょっとムズカシク言うと、同じような認知プロセスを踏襲するのです。

 1.問題の把握
 2.先行実践の確認
 3.先行実践をふまえたオリジナリティのある企画の提案
 4.実践
 5.評価

 だから、よく「マスコミにはいりたい」とか「コンサルにいきたい」とかって、テレビで大学生が言っていて、それでダブルスクールして「四文字熟語」を覚えたり、英語を勉強したりする努力はたたえるけれど、でも、一番の基本は、ゼミナールとかソツロンとか、そういう、どんな大学生でも一応は経験したことのある「えらくトリヴィアルに見えてしまう活動」の中にあるんじゃないかなーと思うんですね。

 それがトリヴィアルに見えてしまうのは、彼らがその活動に従事したからといって、だからどうなんだ?っていう意味に答えられないような問題を選択させられているからで、それが社会とリンクしていて、やりがいの覚えられるような課題であったら、それをトリヴィアルだとは思えないのではないかなーと思います。

 しつこいかもしれないけれど、クリエィティヴであることっていうのは、やっぱりどこにいっても、クリエィティヴなんです。あの場で通用するクリエィティヴ、この場で通用するクリエィティヴって風にわかれるわけじゃないと思うんですね。なんか、説教くさくなって、また「オヤジ臭くなったなー」って言われるかもしれないんだけど、僕はそう思うんだけどなー。


2000/12/30 20世紀最終日記:IT時代の教師たち

 2000/12/22の日記では、IT時代の教師たちというテーマをあつかった。で、日記の最後の方に、

 できれば、是非、みなさんのご意見をお聞きしたいです。この日記上で、討論なんかができたらいいなーと思っているので、ご意見をメールなんかでお送りいただけたら、うれしいです。

 と書いておいたら、以前からおつきあいさせていただいている静岡県立榛原高等学校の鈴木先生から、いくつかのメールをいただいちゃいました。鈴木先生には、この場を借りて感謝いたします。で、鈴木先生のご了解を得ることができたので、いよいよ日記上での「ちょっとしたディスカッサント」となることになりました。

 まず、鈴木先生は、中原の先日の日記をお読みになり、以下のようなご意見をくださいました。

 中原さんとしては、かなりあっさりとした「結論」のように感じました。むろん、これまでの中原さんの議論を踏まえれば、この結論でOKなのでしょうが。そう感じたのは、次のような部分が資質としては根本として必要なのではないかと思うからです。

 それは、子どもたちに自分の授業を通じて教育者として何を教えたいかを明確にすること、それを教えるためにIT機器を使う必要性あるいは効率性を見て取れるだけのITに関する「知識・技能」を持ち、それを活用するための煩雑な仕事(コンピュータ室の整備や準備、授業用のハンドアウトの作成などなど)をやる時間を捻出するとともに活用した授業をシラバスに入れるられるように授業の時間配分や効率を考える「熱意」を持つこと、そして、その授業について授業前・中・後にリフレクションすること。打っていて、ずいぶん欲張りだなぁと自省してしまいました。また、これは特に「IT時代の教師たち」に求められる資質ではなくて「教師」一般に求められる資質ですね。

 上記の引用で鈴木先生がおっしゃっているのは、まとめると、以下のようなことになります。

1.自分の授業で何を伝えるかを明確にすること
2.ITに関する知識と技能
3.そうした授業を行うことに付随する時間を確保するスキル
4.授業の時間配分や効率性の考慮
5.そして、授業前・中・後のリフレクション

 先日の中原の日記では、2と5に関してはとりあげていました。また1は5の結果と考えることができますから、先日の中原の日記で取り上げなかった問題は、3と4に関するものになります。

 3と4の問題というのは、ちょっと経済的で、ちょっと政治的な課題ですよね。なぜなら、授業の時間配分や時間数などは、制度化されているからです。これは、教師ひとりの意向とか関心だけで、どうにもならないようなこともたぶんにあるわけです。

 IT時代の教師は、そうしたちょっと経済的かつ政治的な課題に生じる「緊張」を、何とかかんとかmanageしていく力も必要なのかもしれませんね。
 中原の先日の日記では、ここに対する洞察は、完璧に抜けておりました。これらの問題は、教員をサポートする側の条件と述べられないこともないのですが、なるほど、非常に重要なことだと思います。でも、これを個々の教員の努力としてしまうのは、あまりにそれをサポートする側の怠慢であるようにも思います。

 こういう問題を指摘する中で、鈴木先生はこのようにもおっしゃっています。

 要は、中原さんの「結論」の前提となるようなことを書きたかっただけなわけです。

 なるほど、僕の先日の結論は、あまりに綺麗すぎるのかもしれません。<制度>の中で自分の授業をManageしていく存在としての教師のスキルも、おっしゃるとおり、その結論の前提条件として重要なことだと思います。

 ところで、鈴木さんとこんなやりとりをしていて、先日、僕が読んだ本のことを思い出しました。それは「オンライン教育の政治経済学」という本なんですが、以前、日記にも紹介しました。

 この本では、オンライン教育とか教育の情報化っていうのが、ニューメディアのときも、マルチメディアのときも、かけ声だけで終わってしまうのはなぜか?っていう問題を政治学、経済学(というよりも社会学っぽい)の立場から考察するんだけど、この著者は、ほんの中で、「今までの教育の情報化の言説の中には、政治学的、かつ経済学的言説がすっぽり抜け落ちていた」みたいなことをシャンと述べているのですね。

 要するに、個々の教師のボランティアゴコロや意識や意向に偏りすぎた改革を行ってきていて、その結果、制度のチカラを甘く見ていたのだと。僕にとっては、この指摘は「なるほど!」と思ってしまいました。確かに、自戒をこめて言うならば、学習論とか教師教育の知見とかに偏るあまり、そうした現実を僕は見ていなかったようにも思うのです。

 ムズカシイですねー、教師にかかわる問題は。

 とまぁ、20世紀最後の日記は、これでオシマイです。なんか消化不良な終わり方だったように思いますが、来年も、こういうことをキチンと考えていきたいと思っています。それではみなさま、よいお年をお過ごしくださいね。


NAKAHARA,Jun
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